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連載オカンといっしょ

オカンといっしょ #5 White(後篇)

ツチヤタカユキの連載小説

genre : エンタメ, 読書

 3歳の時に死んだ祖父の記憶は一つも残っていない。幼い頃は、墓参りの意味さえよく理解できなかった。

 皆が墓石を祖父として扱うから、僕のおじいちゃんは石だったんだと思った。この四角い長方形の墓石そのものが僕のおじいちゃんで、昔はここから手足が生えていて、自由に動き回っていた。

 そんな事を想像しては、幼いながらに恐怖を覚えた。成長していくにつれて、生前のおじいちゃんはちゃんと人間だった事が分かった。

「これがおじいちゃんやで」

 見せられた古い写真に、ネズミのような顔をした背の低いオッサンが写っていた。人は死ぬ時に、空から電車の吊り革が伸びて来て、それを掴んで天国まで行く。

 右手でそれを掴み、空へ昇っていくおじいちゃんが頭に浮かんだ。

 最近は、おじいちゃんの墓に一人で来る事が多くなった。

 その墓地の周りは、ここだけ何十年も時代がストップしているみたいに、ずっと畑が残っている。

 おじいちゃんの墓地のすぐ近くには、母の母校がある。高校時代の母は野球部のマネージャーをしていて、当然、彼氏が居て、オシャレなカフェでバイトしていたらしい。

 そのカフェでは、マイケル・ジャクソンのPVがずっと流れていて、母はそこでのバイト代で服を買い、オシャレをしていた。

 僕とは全く違う人種だ。僕と母がクラスメイトだったら、母はきっと僕を変人扱いしただろう。僕の事をキモいと言った、中学時代の女子達を思い出した。

 お前らにいつか、僕みたいな息子が生まれたらどうする? それが現実に起きてしまったのが僕達親子だ。

 母とコンタクトを取りに行く電車内。

 母の頭の中は無印良品の商品のように無個性で、こいつの頭の中にはバケモンが暮らしていないと思った。

 その方が幸せな事なのかもしれない。だけど、その事に僕は心底ガッカリした。

 図書館の机に積み上げた小説を、次から次へと脳にぶち込んで行く。以前は本を一冊読むのに6時間はかかっていた。なのに今は、一冊30分で読めるようになった。

 全て読み終えてから立ち上がると、めまいがした。大雪の日に、降って来た雪を全部かき氷にして食べたみたいに、頭の中のバケモンが一気に太って、膨らんだ。

 図書館の閉館時間が来ると、次の逃避場所は、深夜3時まで開いている天王寺のTSUTAYAだ。

 視聴コーナーでロックのアルバムを何十枚も聴き続けていると、いつの間にか閉店の時間が来る。

 ヘッドフォンからなだれ込む、ロックミュージックに合わせて頭をヘッドバンギングさせると、脳みそを一度取り出して、ドラム式洗濯機で回したみたいにグルグルと回転して、さっき読んだ大量の本が、頭の中でシャッフルされる。

 ペンシーを追い出されたホールデンが、ある朝起きたら虫になっていて、キクとハシが金閣寺に火をつけて、ラスコーリニコフがにな川の背中を蹴った。

 そんな風に、さっき読んだ大量の本が頭の中でシャッフルされた。

 家に帰る。団地の廊下はいつだって薄暗い。

 8年前は、学童から帰っても、この薄暗い廊下が怖くて家の中に一人で入れなかった。いつも母の帰りを団地の入り口で待っていた。いつも隠れてばかりだった僕が、母に見つけて欲しくてずっと待っていた。

 すごく目立つ場所に立っていたのに、僕は外が真っ暗になるまで、誰にも見つからなかった。

 帰って来た母は、理解に苦しむような表情を浮かべながら、「何で中で待ってへんの?」と呆れながら言った。

 今はもうこんな廊下、怖くも何ともない。

 母は部屋で寝ている。朝がやって来る。そのまま一睡もせずに、高校へ行く。

 高校に時間通りにちゃんと行くのは、久々の事だった。席に着くと睡魔に襲われ、机の上に突っ伏した。

 次に顔を上げた時、5時間目の授業が終わりかけていた。コンタクトをはめたまま眠ったから、眼球にコンタクトがへばりついて痛い。ずっと、オバケのキャスパーが目の前にいるみたいに、教室全体が、薄く靄がかかって見えている。

 授業終わり、トイレに行って鏡を見たら、ロブスターを無理矢理突っ込んだみたいに眼球が赤く充血している。

 人間の体で、白色の部分は眼球と歯だけだ。

 その時、僕は歯ぐきから出血していて、口の中が血で赤色になっていて、僕から完全に白色の部分が消えていた。

 6時間目。音楽の授業が始まる。

 授業が始まると、盲目先生の目が見えないのを良いことに、いつものように、ほとんどの生徒がこそこそと遊び出す。

 その日、盲目先生はピアノの前に座り、指を置いた。

 そして唐突に、溶けたアイスクリームでベタベタになった手を、鍵盤で拭いとろうとするかのように、激しく叩き始めた。

 バケモンが、日の当たらない場所から出て来て、爆発する音楽。全員が顔を上げて、盲目先生を見ている。

 素晴らしいミュージックは、記憶の空港になっている。入国審査は、振動する鼓膜。パスポートは、そのサウンドに共鳴する心臓。搭乗口のゲートを越えると、あの頃に戻される。