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安室奈美恵が私たちに残してくれたもの

厚底の上の世界

2017/09/30
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©getty

 引退の報道を受けてのぞいた安室奈美恵の公式ホームページでディスコグラフィを見ると、掲載されているTKプロデュース以降のCDジャケットが今見ても時代を感じるダサさがないことに驚くが(私が持っている「TRY ME」や「愛してマスカット」のジャケットはそこそこダサい)、それより、小室ファミリーを離れて活動を開始した2001年以降の曲は、私も順番がわからなくなっていたり忘れていたりするものも結構あることがわかってびっくりした。以前と変わらず彼女のCDは全て買い揃えていたのだが、特にSUITE CHICとしての活動の頃は、曲のタイトルも含めてかなり忘れている。それは彼女が産後早々に若い女の子のアイコン的性格を脱ぎ捨て、和製ディーバとして彼女自身の道を切り開いたからであろう。

 彼女の魅力はこの25年一度も衰えたことはない。むしろ95年より今現在の方がさらに洗練されて美しく、ダンスも歌も年々磨きがかかっているが、確かにいつのまにか私たちは彼女の口紅と似た色を必死で探すようにしては彼女の背中を追わなくなった。自分たちが年をとって身の程を知ったというだけではない。

 まるで海外のゲットーの事件のように思えたような形で母親を亡くし、海外アーティストに引けを取らないパフォーマンスをする彼女は、実は最初から私たちが想像していたよりもはるかに私たちとは遠い存在で、私は6年間かけて1ミリずつ彼女の背中を追いかけていたつもりが、実は6年かけようが60年かけようが彼女には1ミリほども近づいていないことに気づいた。

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私たちが夢見たあの厚底の上から見る世界

 彼女の背負うものの大きさや一般的な日本人では育めないような感覚は95年のステージとは違う意味で私たちを圧倒し、嫌でも自分は自分自身の現実の上に立たなくてはならないことを思い知らされた。私たちが夢見たあの厚底の上から見る世界は、おそらく彼女より極端に高い厚底を履いて、彼女より極端に日焼けしたところでたどり着くことのできない幻影だった。夢と現実の交差する崇高な場所だった109は、現実と現実が行き交うとてもリアルな場所になっていた。

 いつのまにか追いかける背中を失っていた私たちはそれぞれに色々と人生の優先事項を手に入れ、恋愛もセックスも覚えたし、親のありがたみもわかった。教養の本来的な必要性やお金の価値もなんとなく学び、いつしかなんとなく「今」以上の意味がある時間を過ごすようになる。魅力的な人にも度々出会ったし、真似したくなるファッションは今やスマホの画面にも浮かび上がる。

 それでも時々街のビジョンで、ある時はパトリシア・フィールドのスタイリングで、ある時はオリンピックの公式ソングを提げて、かつて私たちに限りなく現実に近い幻影を見せてくれた安室奈美恵が歌っている姿を見かけると、一瞬も衰えないその身体的な魅力にしばし魅せられ、かつて彼女がそうしたように私たちに追うべき姿を見せ、私たちを虜にするような存在にはその後出会っていない、と気づかされる。それは寂しく残念なことだが、アイコンとしての役割を脱ぎ捨てた後の彼女が変わらず魅力的であり続けたことはものすごく心強いことでもあり、その選択をし続けた彼女の新しい選択は、どんなに寂しくても信用して支持できる。

 現実しかなくなった109の服は安っぽくて壊れやすいが、それでも見ていて楽しいし、なんとなくあの頃の万能感を思い出せる場所として楽しめる。カラオケは今も盛り上がるし、30代になっても場所を選べば厚底くらい履ける。何度だって絶望したが、絶望を超える理由も超える技術も私たちにはある。私は今も私のくだらない人生やくだらない生活に誰かが意味を見つけようとすると、小声で「そんなんじゃないよ、楽しいだけ」と口ずさむくらいには逞しく生きている。

安室奈美恵が私たちに残してくれたもの

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