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【巨人】「28歳、元盗塁王」が戦力外通告、東京ドームで藤村大介に見た夢

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ファーム日本選手権終了後に「藤村、戦力外」のニュースが……

 左バッターボックスの背番号31が泣いていた。

 土曜日の昼下がり、巨人と広島が戦ったファーム日本選手権をテレビで見ながら、こっちも思わずもらい泣き。2009年セ・リーグ新人王で“育成の星”と呼ばれた松本哲也の現役最終打席は三ゴロに終わった。試合後の松本の胴上げシーンまで確認して「あぁ本当に辞めてしまうんだな」としみじみ思った。

 あの「1番坂本勇人、2番松本哲也」のコンビで巨人が日本一に輝いたのはもう8年も前になる。近年は松本と片岡治大の都内小学校訪問を取材したけど、奇しくも2人とも33歳と34歳の若さで今季限りで引退……。いわば年齢との戦いとも言えるプロ野球選手の入れ替わりは激しい。例えば、1年目の4月にいきなり1軍で月間MVPを獲得した高木勇人が、3年目の秋にはカープ2軍相手に炎上。数年前までソフトバンクでセットアッパーを務めていた森福允彦は、広島のゴールデンルーキー坂倉将吾に初球を叩かれ勝ち越し3ランをライトスタンドへ運ばれた。時の流れは残酷だ。

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 そして試合後、飛び込んできたのが「藤村大介、戦力外」のニュースだった。ファーム日本選手権で9回表に顔見せ的に三塁守備へ就いたのはそういうことか……。「まさか」と言うより「ついに」と思ってしまった28歳の元盗塁王に対する戦力外通告。藤村が1軍デビューした2011年のことはよく覚えている。06年1位坂本、07年1位藤村、08年1位大田泰示の高卒ドラ1トリオが躍動していた東京ドーム。いわば、彼らの存在はチームの希望そのものだった。翌12年6月29日中日戦、ドーム来場者配布のプレーヤーズプログラムで宮国椋丞とともに表紙に抜擢された藤村。子どもの頃憧れていた選手は「緒方耕一」、好きな食べ物を聞かれると「ご飯」と答える天然ぶりもチラ見せ。あの頃、多くの巨人ファンは未来のエース宮国や1番セカンド藤村に夢を見た。だけど今、その夢が静かに終わろうとしている。

11年に28盗塁で盗塁王に輝いた藤村大介 ©時事通信社

2011年ブレイク後の苦悩の日々……

「いつもと同じように普通に授業を受けていたら、同級生から「巨人1位だよ!」と言われて「ええっ?」みたいな。スポーツ新聞やドラフト雑誌とか見ても他球団の下位指名かと思ってたんで。その日は放課後も掃除当番だったから普通に掃除して。掃除までは当たり前の学校生活を送っていたんですけどね」

 以前、ジャイアンツ球場で藤村にインタビューをした時、懐かしそうに笑っていた。幼少の頃は水泳で非凡な才能を発揮するも、九州の高校球界で有名選手でもあった父の影響もあり小学4年から本格的に野球を始める。名門熊本工業高校では俊足のトップバッターとして甲子園ベスト4へとチームを導いたスピードスター。そして、授業中に栄光の巨人ドラフト1位指名を受けるわけだ。

 始まりは順調だった。期待のドラ1内野手はファームで英才教育を施され、プロ4年目の2011年に1軍昇格すると、二塁のレギュラーを掴み28盗塁でタイトルを獲得。だが、周囲の喧噪とは裏腹に本人は冷静に自分の実力を測っていたという。

「いきなり盗塁王を獲った時も、意外と出来るなというのはなかった。当時は打率.222で我慢をして使ってもらったという感覚が強くて、打つのと守るのでは通用しなかったんですよ。とにかく走るのだけ。と言っても、数も28個で、他球団の有力選手がケガしてたりとか、誰もいなくて我慢して使ってもらったこそ獲れたタイトルなのかなと。もっと頑張らないと来年、再来年は1軍にいられる可能性は低いと思っていた」

 その予感通りに出場試合数は11年119試合をピークに12年109、13年40、14年21、15年0と年々減少。そうこうする内に他球団から片岡や井端弘和といった実績のある二塁手が続々と移籍して来る。いったい俺は何やってんだ……。出場機会を得るために外野守備にも挑戦、ファーストミットも準備した。背番号も0から57へ降格。もうあとがない。だが、17年も1軍出場は再び0に終わる。気が付けば元盗塁王はプロ10年目の28歳になっていた。

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