昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載地方は消滅しない

葉上 太郎
2017/10/18

地方は消滅しない――神奈川県真鶴町の場合「『美の基準』でまちを作る」

イラストレーション:溝川なつみ

 迷路のようなまちだ。

 人がやっと通れるかどうかという路地が、蜘蛛の巣のように張り巡らされている。これを「背戸道(せとみち)」と言う。家の背中の戸、つまり勝手口を結ぶ道路の意味である。

 真鶴町は神奈川県の小さな港町だ。人口は七千五百人弱、面積は七・〇五平方キロメートルと、いずれも同県で二番目に少なく、小さい。相模湾に突起のように突き出した半島で、人々は肩を寄せ合うようにして暮らしている。家は港を中心にして扇状に密集し、道路の平均勾配は一〇パーセントと、坂また坂の道を階段がつなぐ。交番の警察官が「バイクで回っていると、すぐに階段で行き止まりになります。赴任から一年以上経つのに道が覚えられない」と苦笑するほど入り組んでいる。

 その背戸道を歩くとタイムスリップしたような感覚に襲われる。懐かしいと言うべきか、開発から取り残された昭和の香りがする。

「私達には普通のまちだけど、このところ背戸道を歩きに来る若者が増えているのよ」と、町の観光ガイドを務める六十代の女性が話す。

 真鶴観光の定番は、魚料理と御林(おはやし)だろう。御林は江戸の大火対策として幕府の命で小田原藩が植えたクロマツなどの森だ。巨木の間を縫うようにして遊歩道が整備されている。

「でも、御林よりまち歩きって言う二十代、三十代が増えていて……、ほら、あの子も」とガイドが指さした先には、二十代らしい女性が地図を片手に歩いていた。

「『美の基準』に基づいた真鶴のまちが、静かなブームなのよ」

 美の基準とは、一九九四年に町が施行した「まちづくり条例」に基づく建築物の指標だ。数値による規制ではない。背戸道の重要性を説いた「静かな背戸」、土地の傾斜に角度を合わせるよう促した「舞い降りる屋根」、みかんの産地らしく庭に果樹を植えるよう求めた「実のなる木」など六十九のキーワードでできており、感覚的な言葉と写真で百六十七ページの冊子にまとめられている。海岸で拾った石で装飾したブロック塀が「良い使い方」として写真付きで紹介されるなどしている。

真鶴港に向かって、家々が扇のように建ち並ぶ(真鶴町)

 ちなみに「静かな背戸」は「賑わいを演出した建物の背後には、騒音から逃れた『静かな背戸』を用意すること」などと記されている。

「抽象的すぎて指標にならない」と当初の評価は散々だった。それが今、なぜなのか。これを知るには歴史を振り返らなければならない。

 箱根、湯河原、小田原、県境を静岡に越えれば熱海と、名だたる観光地に囲まれた真鶴に、リゾート開発の波が押し寄せたのは八〇年代後半だ。JR真鶴駅前で八八年、七階建て七十二戸のマンションが建設されて、即日完売した。「温泉のない町でも、マンションが売れると知れ渡ったのです」と、町役場のまちづくり課、多田英高さん(37)は振り返る。「役場には開発案件が次々と持ち込まれ、ディベロッパーの怖い男性が押しかけました。高くても三~四階の建物しかない町で高層のリゾートマンションが次々建つことに町民の間から疑問がわき起こりました。水源に乏しく、湯河原町から買っているのに、水が足りなくなるという不安もありました」。

 八九年、町議会はリゾートマンション建設の凍結を求める宣言を決議する。それでも収まらず、町長と助役が辞任する事態に発展した。そして九〇年、開発賛成派と反対派で一騎討ちの町長選が行われ、反対派が勝った。

 新町長は一定規模以上の開発には水道の給水と地下水の採取を制限する条例を制定して対抗した。折しもバブル経済の崩壊が重なり、開発の波は引いていった。

 しかし、いつまた開発の波が襲ってこないとも限らない。そこで「まちづくり条例」を制定した。

 条例には二つの側面がある。一つは独自の土地利用規制だ。リゾート開発で狙われたのは都市計画法に基づく「用途地域」が指定されていない「白地地域」だった。当時の規制は緩かったので、高い建物が建てられた。そこで全町域を「用途地域」に指定し、建築物の高さ制限などを設けた。通常は県が制定する基準だが、それでは町が守れないと判断した。国や県は難色を示し、現在も町基準とは別に県基準が存在する。

 もう一つが、美の基準による建築物の誘導だった。町では竹下登内閣の「ふるさと創生一億円」で、町民公募の「まちづくり発見団」を組織し、真鶴らしい場所を報告書にまとめていた。この報告書から学者らが抽出してまとめたのだ。「美とはされているものの、真鶴らしさをまとめただけなので、住民には当たり前の内容でした」と多田さんは言う。

 卜部(うらべ)直也さん(44)が二〇〇〇年に役場に就職したのは、国と戦う町の姿勢と美の基準に憧れたからだ。すぐに、まちづくり条例の担当になった。だが、愕然とした。条例が機能していなかったのである。

 数値が示された土地利用規制は運用できていたものの、美の基準は客観的ではなく、「どう行政指導すればいいか悩みました」と話す。

 当時はまだ条例に反対する人が多くいた。「話を聞いてもらうには人間関係から作ろう」と、とりあえず野球、ソフトボール、バレーボールと「地域活動」にいそしんだ。

 五年ほど経つと、美の基準による誘導の成功事例が出てきた。役場が一方的に指導するのではなく、対話を重ねていくと、事業者が「真鶴らしい」設計を自分で見つけて工夫してくれることに気づいた。