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連載平松洋子の「この味」

平松 洋子
2017/10/26

「うまいもんでしょう」いちじくの風呂吹きの官能――平松洋子の「この味」

©下田昌克

 空気の匂いがむっちむち、あられもなく豊満なので気恥ずかしくなる。花の姿を見なくても、その正体はすぐわかる。

 満開のキンモクセイ。小さなオレンジ色の花がびっしり、街路樹のなかから星形の顔をのぞかせている。仕事場に向かうこの道には、なぜかあちこちの家の庭にキンモクセイの木が植わっており、毎年十月に入ってしばらくすると、周辺一帯が甘い匂いのカプセルに閉じ込められたみたいになる。

 あの匂いが好きだと言うひと、濃厚すぎて苦手だと嫌うひと、分かれるようだ。私は、むかし実家の庭にキンモクセイがあったので好きも嫌いもなく、秋の匂いとして馴染んでいるけれど、やたら押しの強いおばちゃんの香水みたいで息が詰まると言いたくなるのもわかる。

 好きでも嫌いでも、キンモクセイはぐいぐい迫ってくる。

 習慣とはおそろしいもので、条件反射で連想するのはいちじくだ。八月あたりから出回っているのに、なぜかキンモクセイといちじくがひと繋がりになっており、急がないと終わる、あわてて買いに走るのも例年のことだ。そのたびに、学習能力がないよまったく、と思う。

 いちじくの風呂吹きが食べたい。あれを逃すと大きな忘れ物をした気になるのは、ぎりぎりのタイミングだからなのか。目前で逃した獲物ほど悔しいのと同じだ。

 いちじくの風呂吹きを初めて食べたのは、かつて虎ノ門にあった割烹「つる寿」である。いまはもうないこの店の主だった柿澤津八百(つやお)さんの思い出はいくら語っても語り切れないけれど、今回はいちじくの風呂吹きについて話したい。

 あるときカウンターの席に座っていると、ふた付きの椀が置かれた。開けて覗きこむと、淡いベージュ色に覆われた球形が鎮座している。

 なんでしょう、これ。

「いちじくの風呂吹きです。熱いですから気をつけて召し上がってください」

 匙を差し入れてすくうと、とろんとしなだれた実のなかに赤い無数のぷちぷちが現れ、どきっとする。口に運ぶと、熱を溜めに溜めたとろとろが舌の上に広がり、ほのかな甘酸っぱさを追いかけて胡麻だれがこっくりと絡む。

「うまいもんでしょう」

 白い上っ張りの柿澤さんは言い、秋のわずかな時期にだけお出ししています、とカウンターの向こうで静かに笑った。

 精進料理でもよく作られる一品だとのちに知ったのだが、こんなうまいものを初めて食べた、と私は興奮の坩堝(るつぼ)に陥った。いちじくの赤ワイン煮もいちじくの天ぷらもまだ知らなかった、二十五年くらい前の話。

 生まれて初めて遭遇した熱い果物の官能も忘れがたいが、あの日の強烈な願望も今だに忘れられない。

「もうひとつ食べたい」

 不意打ちの過剰なおいしさに抗い切れないとき、ひとは放心状態のまま子どもになるのか。けれども、さすがに言い出す勇気はなく、その日は、喉の奥に消えてしまった熱いいちじくのことばかり考えていた。

 いま私の網膜に焼き付いているのは、柿澤さんの「うまいもんでしょう」という柔和な言葉と、匙ですくうたびに嵩が減ってゆくうらめしいいちじくだ。

 皮をむいて器に入れ、強火で五分蒸す。ただそれだけ。胡麻だれと絡めて匙でゆっくり食べた。