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連載オカンといっしょ

オカンといっしょ #8 Orange(後篇)「僕だけが、蝶になれない」

ツチヤタカユキの連載小説

genre : エンタメ, 読書

「人間関係不得意」で、さみしさも、情熱も、性欲も、すべてを笑いにぶつけて生きてきた伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ。これは彼の初めての小説である。

 彼は、父の顔を知らない。気がついたら、オカンとふたり。とんでもなく美人で、すぐ新作(新しい男)を連れてくる、オカン。「別に、二人のままで、ええやんけ!」切なさを振り切るように、子どもの頃からひたすら「笑い」を摂取し、ネタにして、投稿してきた人生。いまなお抜けられない暗路を行くツチヤタカユキの、赤裸々な記録。

◆ ◆ ◆

 そこから、知らない街を歩いた。

 ここら辺の自販機も、120円だ。

 その時に知る。この時代に、自販機が50円で売っている街なんて、僕が育った街くらいだと。

 クソが。クソみたいな街に、産みやがって。あのババア。

 自販機を何度か殴ったら、拳の皮がめくれて、痺れるみたいにジンジンした。

 火炎の中に一瞬だけ、手を入れて、取り出したみたいな感覚だった。

 

 家に帰ったのは、真夜中だった。

 僕の部屋の机に、オカンと取りに行ったコンタクトが置いてあった。そのコンタクトを全て、ゴミ箱に捨てた。

 そこから、裸眼での生活が始まった。

 その日から、見える世界は、変わった。

 家の外に出ると、水の中で目を開けたみたいに、世界全体がぼやけていた。

 チャリは、そんな僕の体を乗せて走る。

 全ての人は、のっぺらぼうで、美人かブスか、オシャレかどうかさえ、判別がつかない。かろうじて、色が判別できる信号機を頼りに、道路を走る。

 信号機は赤色で、それがぼやけて丸い枠からはみ出していて、切り傷から垂れた血液のように見えた。

 ずっと聞こえている車のエンジン音は、海の音に似ている。

 車が僕の横を通ると、空間に一瞬だけ、色がつく。

 白色、黒色、白色、白色、赤色、白色。そんな風に、空間に色がついては、消えた。

 車って白色が多いねんな。白色。人間の骨と同じ色。そこから排出される排気ガスは、灰色。

 排気ガス、全部、車内に放出されるように、設計し直せや。なんで無関係の人間がこんな臭いもん、嗅がされなあかんねん。

 車が僕のそばで、急ブレーキで止まった。その少し後に、風がいっぱい顔にぶつかった。

 中から、男の人の怒号が飛んで来た。「おい! どこ見て走っとんねん!」

 何一つ、ちゃんと、見えてへん。

 その車も、白色だった。

 その後、さらに、2台の車に轢かれそうになりながら、高校に到着した。

 教室に入る。

 のっぺらぼうのクラスメイトだらけの教室。たくさんのエメラルドグリーンが、うごめいている。

 その制服の色彩は、サナギを連想させた。

 特進コースで、たった一人だけ進学先なし。このサナギの中で、蝶になれなかったのは、僕だけか。

 しばらくすると、のっぺらぼうの教師が現れた。何を書いているのかも分からない黒板。

 黒板って、名前に黒が付いているのに、あんまり黒くないなあ。そんな事を考えながら、授業を受けているフリをする。この世界に生きているフリをしている。

「体育の単位が足りてへんから、お前には補習を受けてもらう」

 僕を職員室に呼び出した、のっぺらぼうの教師が言った。

「それさえ出たら、皆と一緒に卒業させたるわ」

 教師の声は、呆れ果てていた。