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杉本博司の「国威発揚」発言 その問題点とは何か?

「国威発揚芸術」をプロパガンダ研究の視点から読み解く

2017/10/31
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口々に叫ばれる罵詈雑言は、ボットと変わらない

 もちろん、国威発揚の時代にもうまく立ち回った表現者たちもいた。表向き国威発揚といっておけば、地位も収入も安泰というわけだ。

 だが、それは泥をかぶるということでもある。政治権力は、予算や名誉などをアメに、そして取締りや規制をムチに、表現者に「忠誠心競争」を強いてくる。

 日本の歴史を少しさかのぼれば、そうした痕跡をいくつも見出すことができる。たとえば、音楽雑誌『音楽文化』の1944年11月号を開いてみよう。ちょうど太平洋戦争末期で、政府が「鬼畜米英」キャンペーンを行いつつあった時期だ。

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「結局アメリカは文明といふ衣裳にその身を蔽ふた野獣そのものの住む未開のジャングルなのだ」(山田耕筰)

「あゝ! ジャズ! 阿片的毒物! 之こそ敵米が精魂を傾けて布設した日本爆砕の地雷原なのだ!」(平井保善)

「敵アメリカ人を憎め! 敵アメリカ文化を呪へ! 敵アメリカ音楽を軽蔑せよ」(野呂信次郎)

山田耕筰 ©樋口進/文藝春秋

 口々に叫ばれる罵詈雑言は、ボットと変わらない。そこに表現者特有の個性はまったく見られない。この没個性こそ、国威発揚の行き着くさきである。

ショスタコーヴィチのような芸当は果たして可能か?

 もっとも、政治権力を過度に敵視する必要はない。由来、文化芸術は王侯貴族や国家機関に養われるなど、政治権力と相伴って発展してきた。それゆえ、政治権力を利用しつつ、利用されないこと、そうした距離感が求められる。

 冒頭に引いた杉本の国威発揚発言も、ある種のアイロニーだとも指摘される。あるいはそうかもしれない。だが、国威発揚の引力はあなどれない。気をつけないと、あっという間に飲み込まれてしまう。

 国威発揚という大義名分を掲げつつ、そこからうまく距離を取って付き合っていく。かつてショスタコーヴィチがそうしたように。そんな芸当が果して可能なのだろうか。

 いずれにせよ、日本はそうしなければならない困難な状況に入りつつあるようである。

ショスタコーヴィチ ©getty
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