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遠藤 展子
2017/11/27

<初公開> 父、藤沢周平が遺した手帳──長女・遠藤展子が綴った思い出

私もやがてそこへ帰るだろう。展子が一人で生きて行けるようになったら。

 作家・藤沢周平が亡くなって20年。この節目に、デビュー前後に書き残していた手帳が初めて公表された。愛娘・展子(のぶこ)さんが誕生して間もなく妻・悦子さんのがんが発覚。8か月の乳飲み子を残し、悦子さんは28歳の若さでこの世を去った。「展子がいるから、私は死んではいけないのだろうか」(手帳より)。しかし、「作家・藤沢周平」は若き夫婦の夢でもあった。

 小説を書かねばならない──。絶望のなかで、藤沢周平は何度も決意を書き記す。

 幼い娘の育児と仕事を両立させていたギリギリの生活。再婚、新人賞受賞、そして、いよいよ小説家への一筋の光が見えてくる。『藤沢周平 遺された手帳』(小社刊、11月29日発売)を上梓する展子さんが、手帳の中で出会った「知らなかった父」について語る(「オール讀物2017年11月号」より転載)。

藤沢周平 遺された手帳

遠藤 展子(著)

文藝春秋
2017年11月29日 発売

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藤沢周平さん ©文藝春秋

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 父が遺していた手帳は、昭和38年から51年までの13年間のものです。ぜんぶで4冊ありました。

 1冊は黒い表紙の小さな手帳で、私が生まれた38年に始まっています。残りの3冊は大学ノートで、46年から51年にかけてのもの。初めて自分の家を持った地名(東久留米市金山町/かなやまちょう)をとって「金山町雑記」と題名が書かれていました。いずれも今から15年ほど前、藤沢周平記念館の設立準備のため、資料整理をしている際に見つけたものです。

 生前、父がそんな手帳を書いていたことは、まったく知りませんでした。実際に手にしてページをめくってみると、それまで触れたことのなかった父の「生の声」が綴られていて、初めて目にした時には驚いてしまいました。

 これまで公表することは考えていませんでした。特に、黒い手帳には、私を産んだ8か月後に28歳という若さで亡くなった生母(悦子氏)への気持ちがストレートに綴られています。しかし、没後20年が経過し、私も50歳を過ぎました。手帳を見つけた当初には触れることの出来なかったことも、この年になった今なら受け止められるようになりました。この頃のことを自分の手できちんと書き残しておかないといずれわかる人がいなくなってしまうと思い、息子の浩平のためにも書くことにしました。

手紙には、父の才能を信じる母の思いが溢れていた

自宅にて執筆中の藤沢さん(昭和48年頃) ©文藝春秋

 もう1つ、最近自宅を整理する中で、私の生母が、自身の母に宛てた手紙が見つかったことも、背中を押しました。

 投函されず家に残されていたこの手紙を、父は大事にとっていたようです。その手紙で母は、読売短編小説賞に投稿した父の作品がいいところまで進んだことなど、業界紙の記者をしながら小説を書き続ける父について具体的に書いていて、意外にも夫婦で小説のことをよく話していたことがわかりました。手紙には、父の小説を書く才能を信じる思いがあふれていました。2人で作家への夢を追いかけていた――これも初めて知ることでした。

 父は手帳の中で、「悦子とのことを書くためにも」小説を書き続けると記しています。