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拓銀破綻から20年 “いざなぎ超え”の2017年に遺された教訓とは?

地銀再編時代までの「平成金融史」を振り返る

2017/11/17

genre : ニュース, 経済

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目の当たりにした「連鎖倒産」

 実際に都市銀行が破綻すると、日常生活にどんな影響が及ぶのか。私が目撃したのは、まず連鎖倒産だ。私がビールを買いに行っていた札幌市内の安売りのリカーショップはすぐにつぶれてしまい、「閉店」貼り紙があった。道内が地盤の中堅ゼネコンや老舗百貨店すら経営危機に陥った。象徴的だったのは、連鎖倒産で失業者が増えたためか、コンビニの店員に中年男性が増えたことだ。慣れない手つきでレジを打つオジサンの姿は今も忘れられない。国内の自殺者は97年を境に、それまでの2万人台から3万人台に急増した。

 拓銀は破綻後、道内は北洋銀行、本州は中央信託銀行(当時)に営業譲渡することになるが、都銀が破綻すると経済が混乱して社会不安が起き、政府は新たな対応を迫られた。当時は預金を全額保護する仕組みはあったが、「破綻前の金融機関に公的資金で資本注入する仕組み」がなかった。

拓銀破たんの記者会見をする河谷禎昌頭取(当時)©時事通信社

 そこで98年10月の「金融国会」で金融再生関連法を作り、経営破綻しそうな銀行には政府が公的資金を入れて一時国有化するスキームができた。直前の98年3月には金融機能安定化法に基づき、政府は経営危機に陥っていた日本長期信用銀行(長銀)と日本債券信用銀行(日債銀)を含む大手21行に1兆8156億円の公的資金投入を初めて行った。ところが金融不安は収まらず、長銀と日債銀に再び公的資金を投入し、一時国有化。長銀は新生銀行、日債銀はあおぞら銀行となった。

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日本経済「悪夢の1997年」

 97年は日本経済のターニングポイントだった。現在まで続くデフレは翌98年からで、いろんな経済指標が97年を境に急激に悪化していった。賃金水準と名目GDPのピークはいずれも97年で、98年から落ち込み始める。完全失業率が悪化し、非正規労働者の比率が増えるのも97年以降だ。

 97年は4月に消費税率が3%から5%に上がり、7月にアジア通貨危機が起きた。日本は不良債権処理が重荷となっているところに消費増税やアジア通貨危機などが重なり、金融危機が起きたのだろう。銀行だけでなく、97年から01年にかけては日産生命など7つの中堅生保が破綻した。

97年は橋本龍太郎政権だった ©共同通信社

 その後も日本経済は長いトンネルが続く。99年1月から00年11月まで「ITバブル」と言われる景気回復があったが、ITバブルがはじけると、00年12月から02年1月まで「IT不況」と呼ばれる景気後退に陥る。00年7月に百貨店のそごう、01年9月に大手スーパーのマイカルが破綻。経営が悪化したダイエーは大手行から金融支援を受けた。ゼネコンの青木建設は01年12月、佐藤工業は02年3月に破綻した。

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