アウンナットの小屋を後にしたのは1月5日のことだった。相変わらず気圧が低いのか霧が立ちこめ小雪まで舞っていた。湿度は高く気温も氷点下18度と薄気味の悪い生暖かさにつつまれていた。

 ただ昨日まで見えなかった月は、月齢6.8と、人間でいえば20歳ぐらいにまで成長し、南の丘の稜線のうえに昇って姿を見せるようになった。

 久しぶりの月光で世界は息を吹きかえした。

10日ぶりに月が再生すると気分も晴れた

 月は、新月前後の約10日間の死の潜伏期間を経てようやく復活・再生し、小屋のまわりの丘や断崖や海氷を青く、柔らかな慈光で照らし出した。それまでの月の無い〈真の極夜〉の10日間は暗く、みじめで、世界は死の闇に覆われ、小屋の前の海が凍っているかどうかさえ肉眼では判然としなかった。だが、月が出さえすれば海氷も見えるし、それどころかなんでも見えた。正確にいえばなんでも見えているわけではなく見えているような感じがするだけなのだが、なんでも見える気がしているので気分が晴れてすべてがうまくいく気がする。

 月が出るとその運行にあわせて1日を組み立てるので、ふたたび夜中の月の南中時刻を中心に1日約25時間制で行動することになった。満月は約1週間後、おそらくその前にイヌアフィシュアクのデポ地に着くだろう。イヌアフィシュクは海岸線が複雑で暗いとデポを置いた小屋の位置がわからなくなる可能性があるが、満月前後の明るい期間に着けばそのリスクも多少は軽減される。もちろんその月の満ち欠けのタイミングを計算してこの日に出発するわけで、要するに極夜世界において人間の行動のすべてを決定、支配するのは月なのだ。

山の稜線から月が出ている ©角幡唯介

エロチックな月光が照らしだした兎

 月光の助けを得て私と犬は橇を引きはじめた。犬も久しぶりの運動が嬉しいらしく、小屋を出て橇をつないだ途端、興奮気味に駆けだした。犬に引っ張られるように定着氷から海氷に下りると湾内は厚い新氷におおわれており、エロチックな月光に照らされてどこまでも広がっていた。

 ふたたび定着氷を歩いていていると妙にまん丸とした雪の塊に気づいた。月光があるとはいえ、やはり暗いことは暗いので、私はかなり接近してはじめて、それが雪の塊ではなく兎だと気づき、あわててライフルを取り出した。

 イヌアフィシュアクに行けばデポがあるとはいえ、デポ食には肉等の蛋白質はほとんどないので、兎の肉は貴重な食料源になる。それに肉を現地調達できればそのぶん持ちはこんだ食料を節約できるので、万が一のトラブルの際にも対応するだけの余裕がうまれる。だからこういうチャンスを逃してはいけない。慎重に狙いを定めて丁寧に射殺した。その場で毛皮をむしり、肉を解体して、肝臓以外の部位をすべて犬にあたえて残りは自分の食料用に橇に積んだ。

 翌日からさらに状況はよくなった。天候が回復して靄がなくなり、月明りが全体におよび足元の雪の状態を照らし出した。ヘッデンを消しても雪の凹凸や前方の乱氷の影が手に取るようにわかり、一気に歩きやすくなった。

 アウンナットを出てまもなく気温が氷点下30度から40度近くにまで下がり、冬の北極らしい寒さがぶり返した。月は日に日に高度をあげて大きく、明るくなり、さらに視界もよくなってきた。定着氷の状態も申し分なくカリカリのスケートリンクのような状態がつづき、犬1頭で重い2台の橇をまるまる引いてくれた。

 アウンナットから50キロ先にあるイヌアフィシュアクの地がいよいよ近づいてきた。

 イヌアフィシュアクに行けばデポがある。私は早くデポ地に到着したくて仕方がなかった。デポさえ発見できれば、もうこの旅の7割方は終わったも同然だと私は考えていた。