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法月 綸太郎
2016/05/03

毒を以て毒を制す

『プラハの墓地』 (ウンベルト・エーコ 著/橋本勝雄 訳)

source : 週刊文春 2016年4月28日号

genre : エンタメ, 読書

 今年二月に亡くなったウンベルト・エーコはイタリアを代表する知の巨人。一九八〇年の小説デビュー作『薔薇の名前』は世界的ベストセラーになった。『プラハの墓地』は二〇一〇年に発表された第六長編で、十九世紀後半のイタリアとフランスを舞台に、ナチのユダヤ人虐殺の根拠とされた悪名高い偽書「シオン賢者の議定書」が誕生するまでの経緯が描かれる。

 主人公は架空の文書偽造家シモニーニ。謎と謀略の物語は彼とその分身が綴った交換日記風の回想に、無名の〈語り手〉が注釈を入れながら進んでいく。イタリア統一、普仏戦争、ドレフュス事件等の史実と、澁澤龍彦が『秘密結社の手帖』で紹介した怪人たちの逸話を精妙に縫い合わせ、波瀾万丈のピカレスクロマンに仕立てたエーコの筆致はまさに円熟の域。文学的/歴史的記述のリンクが縦横無尽に張りめぐらされ、読めば読むほど深みにはまる。美食家の主人公が記録する料理レシピと共に、当時の爆弾テロ技術が詳述されている点も見逃せない。

 シモニーニは「人々はすでに知っていることだけを信じる、これこそが〈陰謀の普遍的形式〉の素晴らしい点なのだ」とうそぶく。だが、剽窃と捏造に加担した当事者らもまた、自分こそ真の「作者」だと信じて陰謀論にのめり込んでしまう(曖昧な記憶の中で増えていく地下の死体は増殖する偽造文書の象徴か)。現代の読者も彼らの愚かさを笑えないだろう。世界に蔓延するヘイトの連鎖は、本書に描かれた手口の焼き直しにすぎないのだから。

 百科全書的な第二作『フーコーの振り子』にも「議定書」に関する考察があったが、ストーリー重視のエンターテインメントとして語り直すことで、荒唐無稽な陰謀論が偏見と差別を拡散するメカニズムがより鮮明になっている。「隠された真実の歴史」を装う物語の危険性を熟知していたエーコは、毒を以て毒を制する覚悟で、この怖るべき小説を書いたにちがいない。

ウンベルト・エーコ/1932年北イタリア生まれ。記号論学者、評論家、哲学者、文学者、作家。ミラノ大学講師、フィレンツェ大助教授などを歴任、ボローニャ大学名誉教授。『開かれた作品』『記号論』など学術書、小説に著書多数。

のりづきりんたろう/「都市伝説パズル」で日本推理作家協会賞短編部門受賞。『生首に聞いてみろ』で本格ミステリ大賞受賞。

プラハの墓地 (海外文学セレクション)

ウンベルト・エーコ(著),橋本 勝雄(翻訳)

東京創元社
2016年2月22日 発売

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