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小島秀夫が観た『マッドマックス』&『リュミエール!』 

モノクロが魅せる「映画の本質」とは何か?

2017/12/03

genre : エンタメ, 映画

映像が表現できたのは“動き(アクション)”だけ

 しかしそこには、映画のあらゆる要素がある。もちろん音も色もない。誕生したばかりの映像が表現できたのは、何ものかの“動き(アクション)”だけである。『工場の出口』は、仕事を終えた労働者が出てくるだけの“動き”を捉えたものだが、そこには計算された画面の構図がすでに存在し、人々の“演技”も存在する。

『水を撒かれた水撒き人』(1985) © 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

『列車の到着』も同様で、画面の奥からこちら側に列車が向かってくるという構図が取られている。その構図、つまりカメラのフレームによる世界の切り取り方によって、スクリーン上の列車を本物と錯覚させることができたのだ。構図と動きによって、観客を錯覚させる=騙す=嘘をつくというフィクションとしての映像の本質が、すでに存在している。補足すると、この映像にある“動き”は、ただのアクションではない。人物やモノがアクションを起こすタイミングや、光の変化による陰影が時間の流れを表現し、“リアルな嘘”を見せるのである。映画の誕生の瞬間である。

『工場の出口』にも『列車の到着』にも、いわゆる起承転結のストーリーはない。しかし、物語は存在する。

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 工場の出口から出てきて、スクリーンのフレームの外に消えていく人たちは、このあと、どこに行って何をするのだろうか?

 あの列車はどこから来て、降車した乗客はどこに行くのだろうか? フレームで切り取られた世界の内と外の差異が、我々観客に物語を喚起させる。

リュミエールからVRへ 1本のレールの上をひたすら走る122年

 それだけではない。兄弟の作品は、興行、見世物としての映画の本質も備えていた。それは、当時の普通の人が一生見られない光景を体験させてくれる機能だ。エジプトのスフィンクスやピラミッド、雪のアルプス、ベトナムの子供、日本のサムライなど、異国の風景や風俗を見せてくれるのだ。これは、今でいうVRの衝撃に相当しただろう。

『ベトナム』(1900) © 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

 兄弟の発明の数年後には、ジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』で、まさに月の世界という存在しない異界をスクリーンに登場させてしまう。映画の最初期に、動き(アクション)、構図、物語、SFX(テクノロジー)、そしてスクリーンに映像を投影するという興行の要素が出揃っていたのだ。

 そこから先の映画の歴史は、極論すれば、1本のレールの上をひたすら走る122年だった。出口も到着駅も、これからの未来もすでに見えていた。

 バスター・キートンやチャップリンが、命がけのアクションを見せていたサイレント映画の時代を経て、映画はやがて音や色を獲得し、現在のCGや3D、4Kといった最先端のテクノロジーによって幅広い表現を手に入れる。