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騒いで動くのが、子どもの仕事――国民的絵本作家から全ての親子へ、未来への希望のメッセージ(中)

『未来のだるまちゃんへ』 (かこさとし 著)

(前)より続く

 セツルメントで子どもたちと出会ったことが、「絵本作家」誕生につながっていく。加古さんが大勢の子どもたちと接して分かったことは、子どもを観察することはとても大切だということ。そして、大人がちょっとしたきっかけを作ってあげることで、子どもは大きく伸びる可能性を秘めている。(札付きのワル「ケンちゃん」については、ぜひ本書でご一読を!)加古さん自身は、どんな家庭で育ったのだろうか?

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『未来のだるまちゃんへ』 (かこさとし 著)
 

――加古さんのお母さまはどんな方だったのでしょうか? 

加古 あまり親の悪口を言うのもなんだけれども、母は明治28年生まれですから、そういう時代だったということもあって、どうも小学校もろくに行ってないらしく、母がくれる手紙は全部ひらがなでね。漢字が書けない無学な母でした。兄弟が多い育ちのせいで、若いときにだいぶ苦労したらしい。

 僕が生まれたのは自然豊かな越前、福井県の武生(たけふ、現・越前市)というところでした。金沢や京都には及ばないけれども、非常にしっとりとした風雅で古風な事が大事にされる場所。ですから、母は芸事に精進して、琴、琵琶、謡曲をやっていた。それをやり始めると、家事はほったらかし(笑)。僕がまだ小さくてワァワァ騒いでいたりしたら、だいぶ怒られてね。昔のことだから、おやつなんか与えてもらえなかった。だから、2、3匹のにぼしがおやつ代わり……でもかえってそれが体に良かったかもしれない(笑)。そういう時代だった。

 1度だけ、小学校1年生のときにジフテリアにかかってね。昔のことだから入院したんだけれども、入院といっても普通の民家みたいなところの2階屋の1部屋に寝かされていた。症状が軽かったせいか、すぐ治っちゃったのに、1年生の受け持ちの女の先生がわざわざお見舞いに来てくれて、窓から足をぶらんぶらんさせていたのを見つかっちゃったんだけど(笑)。そのとき生まれて初めて、おふくろにカステラを買ってもらって食べたんです。病気になると、こんなイイことがあるんだねって思いましたね(笑)。それ以外は、おふくろは非常に厳しかったですね。自分が無学のせいか、「勉強せえ勉強せえ」といつも言っていて。小学校のときは成績がまぁまぁで問題なかったんだけれども、中学に入ってからは、ときどき赤点なんて取るときもあって、そしたらもう、ものすごく怒られた。父兄会なんて行って帰ってきた日には、1時間くらいお説教くらったこともあった(笑)。……まぁ、そういう母親だったんです。

『からすのパンやさん』のモビール

 僕は小さい頃から親には反抗しない主義で、親には何を言われてもだまっていました。父親がまた、真面目でこまめな人間でね。安月給なもんだから、日曜の度に家の中の棚を作ったり、色んな細工ものを自分で作るんです。兄貴はそういうのが嫌いな性質だと僕はにらんでいたんだけど、僕はそういうのが割と好きだから、親父の後にくっついて、「何かほしがっているな」って予感したら、すぐにノコギリやノミを父親に差し出したり、体が小さいから床下にもぐりこんで色々手伝っていました。それが後年、化学会社に就職して工場で工員さん達と一緒に仕事をしたときに、非常に役に立ちましたね。5~6人の工員さんたちと3交代で、僕も一緒に交じって夜勤したりね。研究所の他の連中は夜勤よりも実験室で研究している方が良かったようでしたが、僕はそういうのが性に合っていたんだなぁ。現場の工員さんとも仲良くできた。