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最近、朝日新聞が「自分自身=リベラル」を問い返している

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2017/12/09

▼〈耕論 リベラルを問い直す〉10月31日、朝日新聞(筆者=山口二郎、竹内洋、増原裕子)

 最近、『朝日新聞』が、〈自分自身=リベラル〉を問い返すような論説を識者に書かせることが多い。朝日の自己不安を感じないでもないが、なかでも目に留まったのは「リベラルを問い直す」という表題で10月31日付「耕論」欄に載った政治学者の山口二郎氏と、教育社会学者の竹内洋氏、それにLGBTコンサルタントの増原裕子氏のリベラル論だった。ただ、それだけでは、単にバラバラな意見表明でしかないのだが、後日、また朝日が掲載した犬塚元氏の「リベラルとは何か」という論説(11月12日朝刊)を補助線とすると、現在における「リベラル」衰退の意味がハッキリと見えて来る気がした。

朝日新聞東京本社 ©文藝春秋

 たとえば、犬塚氏は1990年代に、「保守対革新」に代わって「保守対リベラル」が言われだしたことを指摘し、その前提として19世紀から20世紀の「自由」観の推移を確認する。私見を交えて整理すれば、まず王政権力が強かった19世紀の「自由」観は、「権力からの自由」である。それは、ときに恣意的に干渉してくる国家権力に対して「個人の自由」を守る政治思想(J・S・ミル)や、国家の市場介入を批判する経済思想(アダム・スミス)として結実した。が、20世紀になって、資本主義による「自由」の暴走(貧困)が問題化してくると、今度は「権力による自由」を説く政治思想が登場してくる。その幅は広く、マルクス主義からケインズ主義、あるいは最近であればロールズの政治哲学などがそれに該当するが、まさに、この際の対立構図が「保守対革新」であった。つまり、ブルジョワの既得権益保持者――保守に対する革新――国家権力を通じた統制・再配分というわけだ。

 犬塚氏は、そこで筆を止めているが、重要なのはその先だろう。というのも、「権力による自由」は20世紀の福祉国家によってある程度は実現され、20世紀末になると、逆にその弊害(悪平等=不自由)こそが強調されるようになるからだ。そして、そこに登場してきたのが、80年代以降の〈ネオ・リベラリズム=新自由主義〉だった。もちろん、ブレグジットやトランプ大統領の登場を見ても分かるように、今世紀になって、ネオリベの問題(格差=不自由)も明らかになってきたわけだが、では、ネオリベの行き詰まりに対して、〈リベラル=自由主義〉は有効な批判を打ち出すことができたのか。できなかった。なぜなら、最終的に「自由」によって「自由」を批判することはできないからだ。もし、それを実現しようとすれば、どうしても「自由」を超えた価値が必要となる(マルクス主義にはそれがあった)。が、今のリベラルに、「個人の自由」を犠牲にできるような大義は存在しない。

 と考えると、この期に及んで「国家主義ではなく個人の尊厳や社会の多様性を大事にするリベラルの価値は、今の日本に必要なものです」(山口二郎氏)と語ることがいかに的外れなものなのかが分かる。実際、既に「右派であるはずの安倍政権は同一労働同一賃金や教育無償化といった、ある意味、革新的な勢力が長く主張してきたような政策を取り込み始めて」(竹内洋氏)もいるのだ。とすれば、現在の〈格差=不自由〉を是正するには、強力な「国家主義」こそが必要だということになる。が、今やほとんど「国家」の意義を理解するリベラルは見当たらない。というのも、マルクス主義なき後、「国家」に適切に意味備給できるのは、その国の「伝統」くらいしかないからだ。それなら、今、現在、最も「リベラル」の可能性を孕んでいるのはナショナリズムだということになりはしないだろうか?