天気はふたたび悪化し、雪の舞い散る空模様となった。気圧が下がり気温は氷点下17度とそれまでより20度も上昇して、奇妙なほど生暖かった。上空には雲が広がり昼になっても太陽の光の恩恵は受けられず、また冬至で新月だったときと変わらない24時間の暗黒が復活した。

 定着氷を下りて私と犬は海氷上を歩いていた。海氷には往路のときには見られなかった大きな変化が生まれており、あれだけ見あたらなかった白熊の足跡が至るところについていた。暗くて全然分からないが、もしかしたらこの近辺の海氷が沖合いのどこかで割れて開氷面ができており、そこに海豹が集まり、それをつけ狙って白熊も移動してきているのかもしれなかった。

至るところに真新しい白熊の足跡が ©角幡唯介

白熊がうようよしているかもしれない不気味なルート

 海氷上には所々軽い乱氷帯があり、人間は通常、そういう所を避けて歩きやすいルートを選ぶわけだが、歩きやすいところを歩くのは白熊のほうも同じで、結局、私と犬が歩く場所には必ず白熊の足跡がつづいていた。前方が乱氷っぽくなっているのでここで左に方向を変えようと思うと、白熊の足跡も左に進路変更しているといった状態である。ということは、もし今、われわれの近くに白熊が来たら、かなりの確率で鉢合わせするだろうということになる。足跡は単独行動のものがほとんどだが、中には大きな足跡と小さな足跡の2頭組、つまり子熊をつれた母熊の足跡もあった。一般的に子熊をつれた母熊は気がたっているので白熊のなかでももっとも危険だとされており、白熊と道を共有するのはあまり良い気分ではなかった。

 というか、まわりに白熊がうようよしているかもしれないと思うと、不気味で仕方がなかった。往路のように月が出ていれば見える可能性があるが、今のように月もなく、しかも悪天候で真っ暗だと、白熊が接近してきても絶対に私には分からない。ヘッデンをつけて歩いているので、おそらく半径20メートル以内でないと気がつかないだろう。それも照明の方向にいればの話で、それ以外の方向から接近されたら完全にアウトである。この暗黒状況では知覚機能の大半を視覚に頼り切ったわれわれホモ・サピエンスが、迫りくる飢えた白熊の存在を感知するのは事実上不可能だった。

 となると頼みの綱は犬だけである。犬なら歩行中も臭いで白熊の存在を感知して吠える……はずである。もともとそのために私はこの犬を旅のパートナーとして連れているのだ。これだけ足跡があれば、おそらくアウンナットの小屋まで白熊まみれの状況がつづくはずだ。アウンナットまで最低でもまだ5日はかかる。ドッグフードは残りわずかだが、1日200グラムぐらいで食い延ばしてなんとか犬をアウンナットの小屋までは延命させようと、私はそればかり考えていた。正直言って、犬なしでこの暗黒白熊ワールドを歩くのは怖くて考えられなかった。