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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

第11回【蓮華定院その1】昌幸・信繁が高野山に配流になった際、最初に逗留した寺院

『真田三代』 (火坂雅志 著)

2016/10/01

genre : エンタメ, 読書

note

●真田御一家過去帳

真田御一家過去帳(原本を写した写真)

 上段の間に展示されている「真田御一家過去帳」には、昌幸とその正室(山手殿)、側室の3人が同じ年の同じ日に生前戒名を作っていた記録が残されている。正室は、昌幸が高野山へ配流されても同行せず上田に残っている。側室の動向は記録が残っていないため不明だが、3人一緒に生前戒名を受けたにも関わらず、側室までもが上田に残っていたとは考えにくいので、九度山で共に暮らしていたのではないかというのが添田住職の見方だ。

 その他、昌幸が長篠の戦いの17年目、つまり2人の兄の17回忌に供養したという記録や、信之が亡くなった後、松代藩の家来たちが毎年蓮華定院まで赴いて亡くなったお殿様を供養しているという記録などが残されている。その他、信繁が戦場で実際に使っていたとされる兜の写真も置かれている。その兜は何の変哲もない楕円形の地味な物だが、確かに鹿の角を生やした兜などは実戦では使えないだろう。

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●宿坊証文

昌幸が蓮華定院と宿坊契約を交わした「真田昌幸宿坊証文」

 上段の間のそばには真田氏に関連する蓮華定院文書(複製)も多数展示されている。天正8年(1580)3月9日付の「真田昌幸宿坊証文」は、真田昌幸が自身の領内「真田郷」の住民すべてを対象に、高野山参詣の際には蓮華定院を宿坊にすることを定めて証したもの。ちなみにこの証文が現在見つかっている資料の中で、昌幸が安房守と名乗っている最も古い文書である。

信之が当主になった際も、先代に倣って蓮華定院と宿坊契約を更新している文書が残されている