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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

第11回【蓮華定院その1】昌幸・信繁が高野山に配流になった際、最初に逗留した寺院

『真田三代』 (火坂雅志 著)

2016/10/01

genre : エンタメ, 読書

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 今年1月10日から放送開始したNHK大河ドラマ「真田丸」は三谷幸喜の斬新な脚本とコミカルな演出、俳優たちの名演・怪演により高視聴率を記録。真田幸綱(幸隆)・昌幸・信幸・信繁(幸村)の活躍を描いた『真田三代』(火坂雅志 著)も放送開始以来、順調に部数を伸ばしている。

 ネット上でも毎回放送中から真田丸の感想、ツッコミ大会で盛り上がっており、9月11日放送の回では天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いがわずか50秒で終ったことが大きな話題となった。そして豊臣方についた真田昌幸・信繁親子は死罪こそ免れたものの、徳川から高野山への蟄居を命ぜられ、いよいよ物語の主舞台は九度山・大坂へと移ることになる。

 というわけで、この連載企画も今回から関西編に突入。高野山・九度山、大阪周辺の真田氏ゆかりの地を現地の郷土史家や歴史ガイドと一緒に訪ね、写真とともに紹介していく。

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 関西編第1回は関ヶ原の戦い後、高野山への配流処分となった昌幸・信繁一行が最初に逗留した蓮華定院だ。

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蓮華定院

 関ヶ原の戦いで豊臣方についた昌幸・信繁は、直接戦闘には参戦していなかったが、上田城で徳川軍の主力である秀忠軍を迎え撃ち、これを撃破(第二次上田合戦に関する詳細は「第8回【信濃国分寺/大輪寺】敵味方に別れた親子が会見した地と信繁(幸村)の母が眠る寺」参照)。その結果、信州に足止めされた秀忠軍は関ヶ原に間に合わなかった。1度ならず2度までも真田に煮え湯を飲まされた家康は関ヶ原の戦いの後、昌幸・信繁親子を死罪に処するつもりだったが、徳川方についた信繁の兄・信之やその妻らの必死の助命嘆願により、高野山への配流に減刑されたと考えられている。当時、戦や政争に敗れた者が高野山に追放されて出家を命じられるのは定番のケースだった。かくして慶長5年(1600)12月13日、昌幸と信繁は上田城を退去して山上の宗教都市・高野山へと赴くこととなった。

 その昌幸・信繁一行が高野山に入ってまず逗留したのが蓮華定院である。それはごく自然な成り行きだった。蓮華定院は真田氏と長くて深い縁がある寺だったからだ。縁の始まりは今から遡ること約500年前の大永2年(1522)。大永1年(1521)、高野山で大規模な火事が起こった。大規模な寺院400、中小の寺院3900、合わせて4300もの寺院が焼失した。ちなみに現在は100ほどの寺院しかない。当時の高野山は端から端までびっしりと寺院が建ち並ぶ、想像を絶する山上の宗教都市だったことがわかる。しかしそれが災いして1つの寺院から出た火は瞬く間に数千の寺院に燃え広がり、多くの死者を出してしまったのだ。

 その大火事の翌年に、高野山の復興を目的とした資金集めのため使者が全国に派遣された。その中で、信州を担当した僧侶は、当時小県・佐久地方で最も強い勢力を築いていた海野氏を始め、多くの地方豪族と宿坊の契約を取り付けた。これは蓮華定院にとって大きな固定収入の1つになったはずだ。そして海野氏は真田氏の祖先である。昌幸が真田家の当主になった時、かつて祖先がそうしたように自分も蓮華定院との間で宿坊の契約を更新した。その約定は今も蓮華定院に残されている。

 このような経緯があるので昌幸・信繁は高野山蟄居に際して、まずは先祖代々宿坊にしている蓮華定院に身を寄せたというわけなのだ。ただし現在の蓮華定院は当時の建物ではなく、江戸期に火事で焼失してしまった後、同じ場所に同じ規模、同じ構造で再建されたもの。昌幸・信繁が逗留していた期間は定かではないが(数カ月程度だと考えられている)、その間の生活を偲ぶことができる部屋や資料が残されている。宿泊者限定だが見学できるし、蓮華定院の寺務所で依頼すれば説明してもらえる。また、寺院の裏手には信之とその息子信政の墓所がある。

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