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公明党・市川雄一氏死去 “最後の参謀”の凄み

小沢一郎氏との一・一ラインで知られた ©共同通信社

 公明党の市川雄一元書記長が8日、死去した。享年82。公明党が与党入りする上で、大きな役割を果たした“最後の参謀”だった。

 市川氏は働きながら早大の夜間部を卒業し、創価学会の幹部となっていく。中でも、池田大作名誉会長の「参謀室長」として頭角を現した。「この肩書がついたのは池田名誉会長と市川氏だけと言われる」(公明党関係者)というエリートポストだった。

 政界に転じたのは41歳の時。1986年に国対委員長、89年には石田幸四郎委員長の下で書記長となり、その本領を発揮する。湾岸戦争、自衛隊の海外派遣、政治改革で矢継ぎ早に現実路線を打ち出した。特に自衛隊の海外派遣、国連平和維持活動(PKO)協力法では学会内で反対が強く、市川氏本人も「これがダメなら、辞めざるを得なかった」という局面もあった。学会幹部も「一昨年の安保法で学会内部に異論が多かったと言われたが、PKO法の時とは比べものにならない」と述懐する。

 ただ、「鋭すぎるカミソリ」(同前)で、論破された側には恨みが残る。特に社会党には「現実政党たりえていない」と批判を繰り返した。小沢一郎氏と組んで細川政権を主導し、初めて公明党は与党となったが、社会党が自民党側に寝返ったことで、約1年で終わってしまう。「当時の社会党の村山富市委員長が、とにかく『市川だけは許せない』と感情的だった」(自民党幹部)。野党になり、95年の参院選で新進党が比例第一党になると、今度は自民党から「新進党イコール創価学会だ」との批判が巻き起こり、宗教法人法が改正される。このころ「池田名誉会長が市川氏を罵倒した」との話が広まり、徐々に表舞台から消えていき、2003年には国会議員を引退した。

 ところが、ここから復活するのが市川氏の真骨頂だ。2010年に再び公明党常任顧問となり、党最高幹部に復帰するのだ。毎週1回、中央幹事会のひな壇に座ると「それまではうるさかった幹部たちが、余計なことを言えなくなった」(党幹部)という。

 党トップや大臣にはならず、参謀の道を歩んだ。小選挙区制の導入に際しては大幅な若返りを断行し、世代交代も進めた。その実行力の背景には、支持母体の創価学会に睨みがきいたことがあった。時には創価学会を抑え込める、公明党で唯一、そして最後の政治家だった。