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――取材された中で、もっとも印象的だったことは何ですか?

木村 事件の生存者に斉藤ハマさんという方がおられて、この方はお母さんと、お腹の中にいた子どもを含めた3人の兄弟をヒグマに殺されていました。当然、事件のことなど思い出したくもないことは想像できましたし、これまで取材にも応じて来られなかったことは知っていましたが、この方に話を聞かないと、この本は書けないとも思っていました。

 いざハマさんの家を訪ねてみると、「人の気持ちになってみれ!」と怒鳴らんばかりに追い払われました。当然といえば当然の反応で、二回目に訪れたときも、ぴしゃりと戸を閉められてしまいました。どうしたものか、と思っていたところ、ある日、列車で乗り合わせた方が、たまたまハマさんのお知り合いで、「ハマさんなら普段はよく畑にいるから、そこを訪ねてみたら」とアドバイスをもらったんです。そこで次の休みの日に、また訪ねて行って、畑にいたハマさんに会うことができたんです。家の中と違って、外ですから、門前払いにはならないこともあって、今度はこちらの趣旨、つまり「二度とこういう悲惨な事件を起こさないために、何があったのかを正確に記録しておきたい」ということをちゃんと聞いてもらえました。黙って聞いていたハマさんが、クワをおいたとき、私の真意を汲んでくれたことがはっきりわかりました。ハマさんは「そういうことでしたら、知っていることはお話しします」と仰ってくださいました。「ただ、写真だけは勘弁してください」とも仰って、事件の残した傷跡の深さに改めて立ち尽くす思いでした。

 いずれにしろ、ハマさんの証言がなければ、『慟哭の谷』という作品が陽の目を見なかったであろうことは間違いありません。

 また、蓮見チセさんという方は、わが子を預けていた先でヒグマに襲われ、殺されてしまったのですが、その息子の通夜に夫と参列したときのことを語ってくれました。息子が殺された家で通夜を営んでいると、なんと遺体を取り返しにヒグマが乱入してきたんです。一同はパニック状態になり、チセさんの夫はチセさんを踏み台にして自分だけ、天井の梁に駈け上ってしまったそうです。結局チセさんは、他の人に助けられて梁に上り、一命をとりとめましたが、「人間なんてひどいもんだ」と嘆息されていたのが印象的でした。

 取材を重ねていると、改めて人間の実相というものが浮き彫りになってくるような気がしました。

 結局、約30名もの事件の生存者や関係者から話を聞くことができたのですが、興味深かったのは、肝心の熊の大きさや色でさえ、十人十色で、「赤かった」という人もいれば「真っ黒だった」という人もいるという具合で、それだけ異常な状況だったことをまざまざと知らされると同時に、正確な事実を確定させるのには、慎重を要しました。いずれにしろ、そうした多くの方の協力があって、本を完成させることができました。