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ノストラダムス五島勉の遺言「終末を思え、道は開かれる」

作家・五島勉インタビュー #2

2018/01/01

草柳大蔵、竹中労、種村季弘……週刊誌時代の仲間たち

―― 『女性自身』には、いわゆる「トップ屋」として名を馳せた方がたくさん参加されていたんですよね。週刊誌ジャーナリズムの草分け的な存在の草柳大蔵さん、ルポライターとして今なおファンの多い竹中労さん。

五島 大蔵さんは私よりずっと偉い人で、彼がでーんと構えて芸術的なトップ記事を書いてましたね。とてもセンスのある人で、私はずいぶん勉強させてもらいました。草柳グループというのがあって、その人たちは威張ってる感じだったけど、大蔵さん自身はとても私に好意を持ってくれて、取材で行きづまった時など、子分を何人か貸してくれたこともありました。

 

―― 竹中労さんは、いかがでしたか?

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五島 彼は野人でね。女性週刊誌なんかに何しに来たんだって思いましたよ。わりとハニカミ屋なところもあって、取材が上手くできないことがあるんです。そんなに記事を書くのも上手くないしね。ものすごく主観が多いんですよ。だけど、乗ってくるとすごいことをやる。スクープを連発したり、ある種の芸能記事を書くのなんかは上手かった。

―― あと、意外なところでは、後にドイツ文学者として幅広く活躍する種村季弘さんも、当時は光文社ですよね。

五島 タネちゃんは、当時れっきとした光文社の編集者ですよ。私と組んで、いろんな取材によく行きました。

 

―― 五島さんにとっては「タネちゃん」なんですね(笑)。どんな取材に行かれましたか?

五島 お妃取材とか。

―― あれ、種村さんもやってたんですか。

五島 もちろん。美智子さまの取材も終盤になってくると、全社を挙げて取り組みましたから。

「淋しき越山会の女王」児玉隆也との最後の会話

―― 五島さんが『大予言』を出されてから、かつての週刊誌のメンバーに何か言われたことってありますか?

五島 ないですね。ただね、池袋の東口に『女性自身』のグループが集まる喫茶店がありまして、そこには光文社を辞めてからもよく行きました。そこで、いろんな人に会って話をしたことがあって、今覚えているのが、児玉隆也さん。

 

―― 児玉隆也さんがいたんですか。田中角栄内閣を倒すきっかけの一つとなった「淋しき越山会の女王」を書いたジャーナリストですよね。

五島 彼とは『女性自身』で一緒だったんです。しばらくぶりに会ったんだけど、彼はそのとき癌なんですよ。どこかの病院にいたんだけど、一時出てきててね。彼の顔を見たら、ゴムみたいな色をしてるんですよ。「大丈夫か?」と言ったら、「大丈夫じゃないみたいだ」と。しばらく話をして、私に対しても「単行本というのは大変だよな」とか言ってくれてね。別れるときには、「ダマさん、頑張れよ」と言ったら、「ゴッちゃんも頑張れよ」と言われたのを覚えています。亡くなったのは、それから間もなくでした。

―― 年齢は一緒ぐらいですか?

五島 いや、彼のほうがずっと若いです。たくさんの編集次長がいましたけど、その中でも別格のデスクでした。