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ノストラダムス五島勉の遺言「終末を思え、道は開かれる」

作家・五島勉インタビュー #2

2018/01/01
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池田大作にインタビューした

―― 五島さんのライター時代のお仕事の中では、1970年頃に池田大作氏に関する本を書かれてますよね。これはどういったご関心からですか?

五島 最初の取っ掛かりは、別に大したことはなくて、周りに大作さんにインタビューした人がいなかったからです。それで、私がやってみたいと思ったんです。交渉してみたら、会ってくれるというんで、信濃町まで行きました。バラックと言うと怒られるかもしれないけど、粗末な板葺きの二階建てで、そこに創価学会本部もありました。

 

 大作さんに会った印象は、非常に精力的な人で、偉ぶったところが全くなかった。反権力みたいなものを感じましたね。それ以前に既成政党の幹部と会うこともあったけど、彼らは国民から金をかすめ取ってる官僚みたいな感じがしたんですよ。それに比べると、清新な感じを受けました。私は、「雑誌としてはどうだか分からないけれども、ライターとしてあなた方のことは好意的に見てます」と伝えて、それから付き合いが始まりました。でも、だんだん彼らが偉くなって、権力を持つにつれて、接し方が少しずつね。

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―― だんだん壁ができた感じですか?

五島 そうですね。ただ、しばらくの間、創価学会というのを一つの新しい光みたいにこっちが見ていた時期がたしかにあるんです。でも、今の、自民党の言うことは何でも賛成で、アメリカと一緒になって軍備を増やすことにまで賛成する政党にどうしてなったんだろうというのはあります。

朝鮮戦争時のアメリカ軍を見て「こいつらはなんだ」って

―― 週刊誌時代から『大予言』シリーズまでの全体を通してみると、五島さんのお仕事から何か反米的な印象を受けるんですが。

五島 たしかにある部分で反米的です。

―― それは、戦時中や占領下の体験によるものですか?

五島 戦争そのものは、お互いに敵意を持っているんだから仕方ない。占領時代になると、アメリカ兵がたくさん入ってきて、みんな不愉快な思いをしましたけど、そのときも自分はそれほどひどい思いをしたことはないんです。むしろ、占領初期に来たアメリカ軍は、悪いやつもいたけど、いい青年が多いんですよ。日本人に対して自分たちが保護するんだという気持ちがありました。

 

 だけど、しばらくして彼らが引き上げ始めた後、朝鮮戦争が始まるんです。そしたら、各都市に別のアメリカ軍があふれるようになって、ひどいことになりました。ちゃんとした国の兵隊としての自覚のない兵士が多かった。町の中では騒ぐし、各都市に売春宿みたいなものもできてね、私は取材というわけじゃないけど見にいったんです。そこで、道で会った普通の女の人に暴行する姿とかも見たんです。そのとき、「こいつらはなんだ」と思って、いっぺんに嫌いになりました。

 その頃は、出版界でも反米的な本を書かせてくれたんです。反米で売ってる人にも、左翼の極端な人もいれば右翼の極端な人もいた。私は両方に書けましたから、両方から出してもらいました。そのときから抜けてないですね。もちろん、アメリカ人が全部悪いというんじゃない。いろんなアメリカ人がいて、一律には言えないですが。

 

―― やはりそういった圧倒的な体験があったんですね。

五島 ありました。それは、戦争中にしても、末期になったらずいぶんひどいことをやられるなというのは思いましたし。私たちは勤労動員でしたから。