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“俳句芸人”フルポン村上健志「僕みたいなおしゃべりには、俳句の縛りが合っている」

“俳句芸人”フルポン村上健志「僕みたいなおしゃべりには、俳句の縛りが合っている」

季語、切れ、リズム 僕はこうやって作ってます

note

コスモスやの「や」が本当に難しい

――なるほど……。次の句はどうやって作ったのでしょうか? コスモス畑がお題の回のものです。

 コスモスや 女子を名字で よぶ男子

村上 これ、初めて作った句なんですよ。「切れ」について自分なりに考えたつもりなんですけどね。

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――「コスモスや」の「や」ですね。「切れ」って、村上さん的にはどういうことだと理解されているんですか?

村上 「ここが焦点です」って示す効果と、映像を切り替える役割を持っているのかなあ……。切れは本当に難しいんですよ。解説書を読んでなんとなく分かった気になるんですけど、自在にコントロールできないですね。

お笑いも俳句も「ありがち」と「あるある」の見極めが大事かも

――たしかに、コスモスから学校の風景へ、はっきりと映像が切り替えられている感じはします。

村上 その切り替えられているところにある余白を、読んだ人がいろんなふうに埋めてくれたらいいなって思うんです。こういう、コスモスと男子女子といった、関係が遠そうなものを一句の中で詠みあげる方法を「二物衝撃(にぶつしょうげき)」というそうです。

 

――二物衝撃。

村上 難しいですけどね、かけ離れた事物を一緒にすればいいって話でもないでしょうし。僕、ネタでよく「ウザキャラ」をやるんですけど、ありきたりのウザい人をやっても面白くないんですよ。やるんだったら「あるある」とお客さんを前のめりにさせるようなポイントを作らないとダメで。その「ありがち」と「あるある」のラインの見極めみたいなものが、もしかしたら俳句にも大事なのかなっていう気もしてます。

――「テーブルに 君の丸みの マスクかな」という句は、マスクにずっと視点が当たっているような句ですよね。

村上 こっちの方は多分「一物仕立て(いちぶつじたて)」というタイプなんだと思います。一つの事物についてストレートに詠みあげていく。残されたマスクを見てる人にとって、さっきまでいた人がどんな存在なのかは、受け取る人の想像に任せるという感じです。映像がうまく伝わればいいな、と思いながら俳句をひねっているところはあるかもしれません。

 

――「俳句は映像と相性がいいんでしょうなあ」と俳壇の最長老、金子兜太さんもインタビューでおっしゃっていました。

村上 おお……。やっぱり俳句は深いな。短歌が31文字の「しらべ」の美しさに本質があるとすれば、俳句はスパッと映像を切り替えたり、ズームしていくようなところに本質があるんですかね。とにかく「切れ」はすげえ難しいですよ。特に「けり」には手が出せないです。

――「けり」を使うのは難しいんですか?

村上 助動詞ですから動作につくわけですよね。でも動作に映像の焦点を当てる、動作を主役にするのって、なんか難しい。「や」とか「かな」はとりあえず「マスクかな」みたいに付けちゃえるんですけど。