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経営の神様・松下幸之助が綴った 世界の「ナショナル」への苦難の道(前編)

経営の神様・松下幸之助が綴った 世界の「ナショナル」への苦難の道(前編)

「私が唯一苦労したのは、戦後数年間だった」その全貌とは

2018/07/19

source : 文藝春秋 1965年4月号

genre : ビジネス, 企業, 経済, マネー, 歴史

 このようななかで次に来たのが、先にも述べた公職追放令であった。これにはA級とB級とがあって、A級は無条件追放、B級は審査の上で追放ということであった。松下電器はすでに財閥に指定されていたから、もちろんA級で、常務以上は全部追放である。

 財閥問題については抗議をつづけていたが、この追放には私もまいった。抗弁の余地がないのである。事実、会社は軍需工場に指定されていたし、戦争末期には飛行機もやれば造船もやった。A級の追放は逃れるすべもなかった。事ここに至っては、私もついに社長の職を辞さなければならないかと、ひそかに腹をきめた。

追放解除に組合の支援

 ところが、ここに全く思いもかけぬことが起った。それは労働組合の人びとの非常な協力ぶりであった。

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 終戦直後、GHQの5大改革の一つとして労働組合の結成が強力にすすめられ、組合運動が燎原(りょうげん)の火の如くに起ってきていた。松下電器においても、1万5000人の従業員が、いち早く21年1月に労働組合を結成し、当時の窮迫した生活状況から、会社に対して次々とはげしい要求を出していた。ワッショイワッショイの声にかこまれて、私も何度かカンヅメにされそうになっていた。

©文藝春秋

 ところが、私の追放が一たび新聞に発表されると、この組合の諸君の態度が、こと追放に関しては一変してしまった。すなわち、要求は要求として交渉をつづけるが、社長の追放はわれわれにとっても絶対に困る、というのである。

 当時の組合幹部の一人はこう語っている。「創業自体を見てもわかるように、松下社長は何と言っても全従業員の中心となる大黒柱である。だからこのような大混乱の国家状態、経済状勢のなかで、その大黒柱を失うということは、全従業員の生活をおびやかすことになる。会社をもり立て、全従業員の生活の安定を保つためには、どうしても追放解除の嘆願運動を起して、社長にふみとどまってもらわなければならないのだ」

 もちろんこれでカンヅメがとけたわけではない。相変わらずのワッショイワッショイだったが、一方において組合は強力な追放反対の運動に立ち上ってくれたのである。そして、組合員のみならずその家族の人たちをも加えて、一人ひとり署名捺印した嘆願書を1万数千通も集めた。それを組合幹部の人たちが持参し、何回も上京、GHQはじめ日本の政府に熱心な追放解除の陳情をしてくれた。

「松下君は良い社員を持って幸せだナ。」

 この陳情にはずいぶん苦労したらしい。追放委員会の委員であった当時の星島二郎商工大臣には、最初なかなか会ってもらえなかったらしい。そのころ星島大臣のもとには、毎日のようにウチの社長を追放にしてほしいという面会強要があって、氏はウンザリしておられたらしい。そこへまた松下もか、というわけで、2日目になってシブシブ5分間だけ会おうということになった。

 ところが会って聞いてみると、話はまるきり大反対。組合が追放解除の嘆願に来たというので、びっくりするとともに、また大へん感激されたらしい。そして、「松下幸之助氏は若く、将来のある実業家だから、政府としては助けたいと思っているのだが、なかなかむつかしいのだ。しかし君たちにそれだけの熱意があれば、なんとか道が開けるかも知れない。これからの日本の復興は労使が一体とならなければできない。私もできるだけのことをするから、君たちも力一ぱいがんばってほしい」

 と、1時間近くも大いに激励されたということである。

 また大蔵大臣の石橋湛山氏に会った時も、「日本政府としては、日本の再建のため、追放者をできるだけ最少限にとどめたいと、たえず交渉しているのだ。しかしこの政府の意図を、国民諸君が理解してくれない。毎日、だれを追放してくれ、かれを追放してくれという投書が山のようにくる。一枚として追放を除外してくれというのはない。全く情けない。それにくらべて君のところは……」

 と、これまた感激され、「松下君は良い社員を持って幸せだナ。及ばずながら応援しよう」と肩を叩いて励まされたということである。

 そして、GHQにも行きなさい、ということで、マッカーサーに面会を求めたが、これまたなかなか会ってくれない。7時間も8時間もねばって、ようやく係官に嘆願書の取りつぎを頼むという苦労もあったようである。(こうした労働組合の陳情に加えて、全国の代理店の人たちも立ち上って下さったことを附記したい)

 社内外に起ったこの思わぬ事態に、私としてはもちろん感激のほかはない。感謝して余りあるところである。しかし当時の私の心境として、正直に申して、自分だけ逃れるというのは、いささか潔しとしないという気持でもあった。

まつした・こうのすけ 明治27(1894)年和歌山県生まれ。丁稚奉公で苦労を重ね、自転車用電池ランプの成功で基礎を築く。戦後は家庭電器分野でテレビ、電気洗濯機、冷蔵庫などを世界の「ナショナル」ブランドに育て上げ、経営の神様といわれる。社員に社歌や社訓を斉唱させる経営はある意味で日本的経営の典型といわれた。50年以降の長者番付で10回全国1位を記録。松下政経塾を創設して人材育成にも務めた。平成元年没。

後編〈経営の神様・松下幸之助が綴った「生活費さえ借り歩いた」ドン底の日々とは〉へ続きます。

経営の神様・松下幸之助が綴った 世界の「ナショナル」への苦難の道(前編)

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