太陽の光を正面から浴びながら私は氷河への下りにとりかかった。

 ……というふうには、残念ながらいかなかった。この七転八倒の旅は、太陽を見たからといって、そうやすやすと私を解放してくれなかった。

一度寝袋に入ったら、風が恐ろしくて出られなくなった。

 太陽を見たとき、私はそのまま1時間ぐらい感傷に浸りつづけていたかったのだが、じつは地吹雪が強くて10分ぐらいで耐えられなくなり、最後に写真だけ撮ってふたたびテントの中に引っこんだ。午後から安定するという予報だったので、テントの中で様子を見て風が止んでから下ろうと考えたわけだ。

極夜明けからおよそ1週間、やっと見ることのできた太陽。しかしこの後、風はどんどん強まり…… ©角幡唯介

 ところが予報はまた外れ、安定するどころか風はどんどん強まった。地吹雪の雪煙が上空高く舞い上がって氷床全体を覆いつくし、太陽の光は消し去られてテントの中は薄暗くなった。またしても疑似的極夜空間が現出したのである。そして最後の最後、これで本当に最後だったのだが、今回の旅でも圧倒的に最強で極悪なブリザードが吹き荒れたのだ。

 太陽見物後、テントで様子を見ていた私は、強風から爆風に変わる風の音を聞きながら、とても行動できる状態ではないことを察し、ひとまず寝袋の中に入った。それから風の勢いは終末的、破局的になっていった。ふたたび天気予報無視で強まる嵐に私は愕然とした。前日作った防風壁は晩の嵐で吹き飛ばされていたことを、私は外に出たときに確認していた。つまりテントはこの天変地異的、世界破滅的な風の前に無防備のまま吹き曝しになっていたのだ。ちょっと天候待ちするかと思って入った寝袋だったが、もう、それからは恐ろしくて出ることができなくなってしまった。食事をすることなど到底考えられないし、犬に餌をやることも不可能。ただ寝袋の中で風の音を聞き、すくみ、震え、縮こまり、時間が過ぎ去るのを待った。

これ以上嵐がつづけば、食料が尽きてしまう。

 心底すくみあがったのは、夜、突然バキッという何かが破断した音が耳に突き刺さったときだ。折れるものといえばポールしか思い当たらない。恐るべき疑念に捉われた私はヘッドランプをつけて確認したが、ポールは無事なまま強大な風の圧力に耐えていた。だが、音は確実に何かが破断した音であり、異変が起きているのはまちがいなかった。いったい何が壊れたというのか。壊れていいものなど私の半径5メートル以内には何ひとつ存在していないというのに。

 恐怖に耐えられず、私はまた山崎さんに電話して天気予報を聞いた。もう予報以外、頼れるものはなかった。仮に今風がやんでも、氷河の途中でこんな風が吹いたら無事でいられるわけがない。これまでの不安定な天気のせいで、私の中から予報無しで氷河を下りる勇気は失われていた。

「すごい風なんですけど……」

「止まないねー。こっちもすごいよ」

「予報はどうなってます?」

「真夜中に風は止んで、その後はよくなるみたい。でもこの季節はこういうことはたまに起きるから。角ちゃん。風は絶対止む。そのときは一気に下りたほうがいいよ」

 山崎さんのその言葉を信じ、私は真夜中に風が止むことだけを祈り、恐怖に耐えた。寝袋から出ず、コンロもつけず、朝、行動用に用意した魔法瓶のお茶を2回飲んだ他は、その日は何一つ口にせず、ただ小さく縮こまった。ドゴゴゴという世界破滅的な轟音にまぎれて何度もバキッという例の破断音が耳に突き刺さり、そのたびにひーと震えあがった。私は死を見つめた。

 午前2時になり午前3時になった。風がやむはずの真夜中の時間帯を過ぎて未明に入ったが、風は弱まる気配を見せなかった。もう、こうなると予報がまた外れたとしか思えない。私は覚悟を迫られていた。この感じでは、これまでのブリザードのサイクルはひと通り終わり、天気が安定しないまま次のブリザードのサイクルに入ってしまった可能性が考えられた。そうなるとこれまでの予報はすべて覆り、これから1週間強風がつづくということもあり得る。というか、もうそうとしか思えなかった。狼の肉はほぼ食いつくし、燃料も尽きそうだ。

 これ以上、嵐がつづけば、犬を食べるしか残された途はないと私は思った。そして、あのときのように、また犬を殺すシーンを頭で描いていた。犬を殺して生のまま肉を食えば死ぬことはない。問題は水だが、小便用のポリタンクに雪をつめて、それを鍋で小便に浸せば何とかなるだろう。駄目なら小便を薄めて飲めばいい。そうすれば1週間嵐がつづいても死ぬことはない。あとはテントが無事なことを祈るばかりだと、そう思っていた。

再び犬を殺すシーンが頭に浮かび…… ©角幡唯介

 それからしばらくして風はついに弱まり出した。時計を見ると午前6時を過ぎたところ。嵐の奥でとどろく轟音が消え、地吹雪があたるざーざーという表層的な風の音に変わった。しかし、それでもまだそこそこの風が吹いていることはかわらず、前日の朝と同じ状況だった。昨日はあれから狂ったように吹き荒れた。本当にこれから風は止むのだろうか。