昨日の晩のバキッ、バキッという破断音の正体

 自力で判断不能に陥っていた私が最後に頼ったのも、結局、山崎さんから聞く予報だった。山崎予報は完全に麻薬みたいなものになっており、それなしで私は精神の平静を保てなくなっていたのだ。山崎さんは村はもう天気が回復しており、すごくいい状態だと言った。「上のほうはまだ少し風が残るかもしれないけど、下に来れば収まるから、今日下りちゃったほうがいいよ」。その言葉に背中を押されて、私はついに氷河を下る決断をしたのだった。

 テントを出た瞬間、一変した景観に度胆を抜かれた。氷のように堅い雪面が昨日1日の風で鋭く削られ、氷床全体に1.5メートルほどの深く抉れた跡がミニ・グランドキャニオンのように隙間なく広がっている。何よりも驚いたのは自分のテントの状態を見たときだった。テントの床下の雪も吹き飛ばされ、深く抉れており、風上側の3分の1が宙に浮いていたのである。堅雪に刺しこんでいたアイススクリュー等の支点は抜け落ち、というか刺しこんでいた雪面自体が無くなっており、3本が宙にぶら下がっていた。これを見たときに初めて、私は昨日の晩のバキッ、バキッという破断音の正体が何だったのかを知った。あれは床下の堅雪が強風で割れて、次々と剥がれていく音だったのだ。テントが無事だったのは、周縁部のスカートに乗せた雪が凍結して周囲と一体化していたためで、それもたぶんあと半日も吹けば終わり、私はテントごと吹き飛ばされていたにちがいない。

最後のブリザードが終わり、雪面は風で削られボコボコしている。この日、初めて日の出を見た ©角幡唯介

 冗談抜きで、ぎりぎりのところで嵐が止んでくれていたことを知り、私は肝を冷やした。

旅のフィナーレは村人と朝陽に出迎えられて。

 それから私と犬は氷河の下りにかかった。今度こそ本当に下りはじめることができた。氷点下34度、風はまだ7、8メートルあったが、もはや清々しい爽風にしか感じない。全面的に雪が深く抉れ、橇が谷間に転がり落ちるのに苦労しながら、ミニ・グランドキャニオン状態となった氷床を南に進んだ。快晴となり視界は春のように完璧に広がったが、メーハン氷河の入口は相変わらず分かりにくく、途中で右に進みすぎて4日前に越えたサスツルギのある大きな氷河の源頭が見えてきて、かなり混乱した。それでも左手に方向を修正すると、次第にシオラパルクのあるフィヨルドの見慣れた光景が広がり、ようやく目指す氷河を下っていることが確認できた。風も収まり、本当に村への帰還が正真正銘、確実となって、私はついに緊張感から解放された。旅がいよいよフィナーレを迎え、私は犬に素直に語りかけた。

「本当に生きて帰れてよかったなぁ。俺はお前を食べるところを何度も想像したんだよ。じつは昨日も……。そうならなくて本当によかったな。また今度、どこかに行こうな」

©角幡唯介
©角幡唯介

 犬は私のことをガン無視して寝っ転がっていた。

 氷河の麓の最終キャンプ地を出発して、私と犬は堅い海氷の上を歩きはじめた。海氷は強風で雪が吹き飛ばされ、パソコンで色調補正したかのような深い青色をたたえていた。フィヨルドの周りには、見慣れた山々が白く海を取りかこんでいる。日の出前の淡い光が空をつつみこみ、幻想的な薄紫色に染めている。じわじわと村に向かううちに日の出は近づき、風景も鮮やかに色づき、そして空も次第に青く、明るくなって、色を変えていった。光によって現出したこうした何気ない色彩の移ろいが、私にはとても新鮮だった。

80日ぶりに人と会った。村の人が「見に来たよ」。やってくるとは知らなかった ©角幡唯介

 犬が私の隣で大人しく橇を引いていた。やがて村人が何人か家を出て、温かい服を着て、氷の上に姿を現すのが見えた。氷上の村人の影は次第に大きくなっていき、そのうちどの影が誰だかわかってきた。

 ちょうどそのとき南東の空に太陽が昇り、朝陽が村の背後の山にあたって黄金色に輝いた。

 太陽は対岸の半島からゆっくり高度を上げていき、朝陽に照らされる日向の場所がだんだん広がって私に近づいてきた。

 村の人が手を振り、私も手を振った。村の手前にたどり着くと、山崎さんがカメラで私が帰着するシーンを撮っていた。私に何か質問したが、私は感極まってうまく答えられなかった。村人が私を出迎えて抱擁し、おばさんがポケットからリンゴを取り出して私に手渡した。噛みしめると酸っぱい果汁が口の中に広がった。

ついに村に戻る。再会した村人からリンゴをもらった ©山崎哲秀

 左手のほうを見ると、ちょうど太陽が半島から顔を出し、私たちを眩く照らしていた。村人と太陽に迎えられ、私は人間のすむところに帰ってきた。

 80日ぶりに戻ったシオラパルクは、もう春のように感じられた。極夜は完全に明けた。村はこれからみるみる明るくなっていく。そしてわずか2カ月後には、太陽の沈まない白夜の季節が始まる。

©山崎哲秀

『極夜行』
角幡唯介

定価:  本体1750円+税
発売日: 2018年02月09日