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野生に目覚める犬を力強く描き出す――手嶋龍一さんが今月買った10冊

『犬物語』『ダッハウの仕立て師』ほか

2018/01/18

 氷結したロシア・スンガリを望むハルビンとクレムリンに粉雪が舞うモスクワ。いずれも厳寒の地として知られている。真冬の晴れた日に街路を歩いてみるといい。澄みきった大気のなかで頭はすっきりと冴えわたって爽快な気分になる。

手嶋龍一(外交ジャーナリスト)

 凍てつく街路の散策は嫌だが、冷気に触れて爽やかな気分は味わいたい――。そんな人にお薦めの一冊がジャック・ロンドン著『犬物語』だ。二〇世紀初頭のアメリカに突然変異のように現れた作家が犬にまつわる五つの短編をものし、翻訳の名手、柴田元幸が編んだ珠玉の叢書である。圧巻は「野生の呼び声」だろう。

 温暖な西海岸の豪壮な邸宅で王のように暮らしていた大型犬バックは、或る日、拉致されてしまう。ゴールドラッシュに沸き立つ極寒の地で使役されるためだ。ふさふさとした毛に身を包むバックは、次々に襲い来る苛烈な運命と戦いながら、自らの内に眠っていた野生に目覚めていく。彼の眼前で突如として繰り広げられる狼犬たちの果てしなき闘い。司馬遼太郎はそんな情景を力強く描き出すロンドンの文体を「削岩機」と形容して賞賛を惜しまなかった。

「閃光のように飛び出してきて、カチッと金属のように歯を食い込ませ、同じくすばやく飛びのく。カーリーの顔は目からあごまで引き裂かれた」司馬は開高健に捧げる弔辞で、その類い稀な文体を「大地に深く爪を突き刺して掘り崩してゆく巨大な土木機械を思わせる」と評し、ロンドンの掘削力に対比させている。

「そのとき思い合わせた一情景は、十九世紀末、二十世紀初めのアメリカの新しい文学的状況のことどもでありました。東部の中流家庭の母親が、イギリスの品のいい文学を娘たちに読ませているとき、西方の太平洋岸にあっては、たとえばジャック・ロンドンの削岩機のような文体が出現したようなものであり、あるいはそれよりあとの、走る牛をつかんで五つの指を突きさし、生肉をむしりとるような文体の持ち主が相次いで登場した時期のことでもありました」

「主犬公」バックは、野生を漲らせたロンドンの投影であっただけではない。野生の国家としてやがて世界に覇を唱えようとしていた若きアメリカの分身でもあった。

 二〇世紀は国家の野生が暴虐に至る「戦争の世紀」だった。その沸点はナチス・ドイツの強制収容所。シャネルに憧れる若い英国女性が彼の地に閉じ込められ、暴力と監視のもとで労働を強いられる。『ダッハウの仕立て師』は、歴史学者が書いた物語だけに、細部が緻密で堅牢だ。

 その後に続く「冷たい戦争」で東西両陣営はベルリンを舞台に死闘を繰り広げた。畢生の名作『寒い国から帰ってきたスパイ』の著者ジョン・ル・カレは、老いてなお冴えわたる筆で冷戦の戦士たちをいまに蘇らせた。自身も情報部員だったル・カレは、『スパイたちの遺産』で冷戦下の都市に逝ったスパイの墓を掘り返し、老情報大国の古傷と向き合っている。

 分断された街ベルリンの検問所「チェックポイント・チャーリー」で敵の銃弾に斃れたアレック・リーマスは私生児を遺していた。彼のひとり息子がイギリス政府を訴え、巨額の損害賠償を求めたのである。雑草に覆われた古戦場から、往年のスパイたちが次々に喚問されていく。秘密情報部の上層部に潜む裏切り者に孤独な戦いを挑んだ伝説のスパイ、ジョージ・スマイリーと部下のピーター・ギラムが主な標的となり、若い後輩の厳しい追及にさらされる。

 リーマスが貴重な情報源〈チューリップ〉をベルリンから亡命させるため、彼女の息子グスタフを父親のもとに送り返し、チェコへの脱出行を試みる物語は哀切である。暗く煤けているが、モルダウ河に抱かれて美しい冷戦期のプラハが鮮やかに蘇ってきた。かつて私もこの地に身を置いたことがある。冷たい戦争を目撃した者の責務として、その素顔を記しておかなければ――。そんな思いを深くさせられる力作だった。

◆ ◆ ◆

01.『犬物語』ジャック・ロンドン著 柴田元幸訳 スイッチ・パブリッシング 2100円+税

02.『ダッハウの仕立て師』メアリー・チェンバレン著 川副智子訳 早川書房 3200円+税

ダッハウの仕立て師

メアリー チェンバレン(著),川副 智子(翻訳)

早川書房
2017年1月7日 発売

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03.『スパイたちの遺産』ジョン・ル・カレ著 加賀山卓朗訳 早川書房 2000円+税

スパイたちの遺産

ジョン ル・カレ(著),加賀山 卓朗(翻訳)

早川書房
2017年11月21日 発売

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04.『父のこと』吉田健一 中公文庫 860円+税

父のこと (中公文庫)

吉田 健一(著)

中央公論新社
2017年9月22日 発売

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05.『カンボジアPKO日記』明石康 岩波書店 4200円+税

カンボジアPKO日記――1991年12月~1993年9月

明石 康(著)

岩波書店
2017年11月8日 発売

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06.『レッド・プラトーン』クリントン・ロメシャ著 伏見威蕃訳 早川書房 2500円+税

レッド・プラトーン 14時間の死闘

クリントン ロメシャ(著),伏見 威蕃(翻訳)

早川書房
2017年10月18日 発売

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07.『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎 光文社新書 920円+税

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

前野ウルド浩太郎(著)

光文社
2017年5月17日 発売

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08.『テヘランからきた男』児玉博 小学館 1500円+税

テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅

児玉 博(著)

小学館
2017年11月15日 発売

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09.『S.モームが薦めた米国短篇』ヘミングウェイほか著 小牟田康彦編訳 未知谷 2500円+税

S.モームが薦めた米国短篇

アーネスト・ヘミングウェイ(著),小牟田康彦(翻訳)

未知谷
2017年11月6日 発売

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10.『日本の人類学』山極寿一・尾本恵市 ちくま新書 880円+税

日本の人類学 (ちくま新書)

山極 寿一・尾本恵市(著)

筑摩書房
2017年11月8日 発売

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