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今福龍太が『逆さに吊るされた男』(田口ランディ 著)を読む

2018/01/14
『逆さに吊るされた男』(田口ランディ 著)

 ヒッチコックの名作「サイコ」は、連続殺人犯の自白を聞いた精神科医が事件の「解釈」を淀みなく語るシーンで終わる。母親への依存症と人格分裂のあげく行われた猟奇殺人。観客は最後に、宙づりだった謎が氷解したことを知る。だが胸のつかえは治まらない。明快すぎる解釈が、逆に出来事の背後に隠された闇を予感させるからだ。殺人の証拠が沈められた「底なし沼」の謎めいたイメージが最後に登場する。訳知り顔のお前に何がわかるのだ、と冷笑するかのように。

 本書にもこれと同じような「沼」が登場する。青緑の藻に覆われた沼。何も映し出さず、意識の闇にぬっと出現する沼。収監され死刑を待つ「オウム事件」の実行犯Yと語り手の作家の長い個人的な付き合いと手紙のやり取りを縦糸に、斬新な「オウム解釈」を横糸に語られるこの自己言及的な小説は、現実の意味を求めて生きる私たちが究極において直面する不可知の「沼」の粘液質の感触をまざまざと伝える。

 理解し、解釈することにかまける現代社会。そこでは宗教はそれ自体禁忌である。だが理性的な解釈の落とし穴に人一倍敏感な著者は、オウムという謎に捨て身で接近することを通じて、自分なりに創り上げた真実の向こう側を見てしまう。作家の過剰な自意識のファンタジーの果てにある底なし沼の光景である。

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 現代社会は「違い」を特別視した。自己と他者は峻別され分断された。犯罪者もテロリストも。同質性の閉域のなかで他者を排除して実現される幻影の理解。だが「違う」の反対は「同じ」ではない。むしろ「違う」(ディファレント)の反対は「無関心」(インディファレント)。そしてインディファレントは「偏らない」「未分化」という意味でもある。著者ははっきりと、自分はオウム事件などに関心はなかった、どうでもよかったのだ、と書いている。このインディファレンスこそ重要だ。それは「違い」の認定が作りだす「理解」という偏向=幻想を問い直し、私たちと他者のあいだの「未分化な」領域を照らし出す。分けることによって理解しようとしないこと。深いところで結びあっているものを分裂させないこと。

 著者にはこの潔く聡明なインディファレンスがある。そしてそれは、ファンタジーではなくフィクションを、という声に私には聞こえる。本書は、独善的な「ファンタジー」をつくりあげてしまう人間意識にたいし、小説という「フィクション」がその過程を批判的に照らし出すことができるのだと教えている。

たぐちらんでぃ/1959年、東京都生まれ。2000年『コンセント』で作家デビュー、01年、『できればムカつかずに生きたい』で婦人公論文芸賞受賞。著書に小説『アンテナ』『モザイク』『富士山』『被爆のマリア』『キュア』『ゾーンにて』『リクと白の王国』など多数。

いまふくりゅうた/1955年、東京都生まれ。文化人類学者。著書に『今福龍太コレクション《パルティータ》』(全五巻)など多数。

逆さに吊るされた男

田口ランディ(著)

河出書房新社
2017年11月11日 発売

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