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「東京の地酒」が活路を見出した「観光蔵」というコンセプト

50年後のずばり東京――首都は案外、酒どころでもあった(前編)

2018/01/26

「酒蔵はどうですか? 東京の酒蔵」

 東京・有楽町のガード下にある店で打ち合わせをしていた時のことだ。編集者・Yさんに、東京について面白い話題はないかと聞かれたので、そう答えた。すると常時平熱な彼が一瞬、驚いた顔を見せたのである。お、と思った。

加藤ジャンプ氏(文筆家) ©文藝春秋

 私は、文筆を仕事にしている。ただ、長いこと酒を呑んで方々の酒場を訪ねているので、いつの間にか酒について書くことが増えた。ライターとは別にコの字酒場探検家とも呼ばれている。カタカナのコの字型のカウンターの酒場が好きで、それを『コの字酒場』と名付けたのがきっかけである。といっても良い酒場ならば何の字型だってかまわない。そういう素性だから、東京にまつわる何かも酒がらみがよかろうと思って、冒頭の発言に至ったのである。

 私の質問に、Yさんは、

「え! 東京に酒蔵なんてあるんですか?」

 ええ、ええ、あります、ちゃんと酒を造っている酒蔵が8つもあります、と、こちらもちょっと得意になって答えたのだった。

 東京は、実は案外、酒どころなのである。しかも東京の酒蔵の酒は、結構な確率で旨い。

 酒に課される税金である酒税を管轄するのは国税庁である。国税庁は地域ごとに管轄が分れており、東京は千葉、神奈川、山梨と同じ東京国税局の管内にある。東京国税局は毎年、ほかの局と同様に担当エリア内の酒蔵を対象に酒類鑑評会を開催する。この鑑評会は「出品すればとりあえず受賞」という類のものではなく、ガチンコのコンクールである。そんな鑑評会で、東京は今年、全部門で優等賞を獲得した。稼動している8つの蔵のうち5つが、何らかの部門で優秀賞をとったのである。

 私も日頃から日本中の酒場をほっつき歩いていながら、実は東京の酒蔵の酒を飲む機会はきわめて少ない。「地酒がいい!」と宣いながら東京の酒場で、東京以外で造られた酒ばかり呑んでいる。

 あらゆるモノが集まり、食と酒についてもなんでも揃う東京。だが、その地元で作られる酒について、旨いにもかかわらず、酒飲みですらあまりに無頓着である。そもそも東京と酒のかかわりはいつ頃、どんな風に始まったのだろうか。

東京最古の酒屋を訪ねる

 モチは餅屋というので、酒のことはまず酒屋に聞くべきだと考えた。なにしろ、東京にはとびぬけて長い歴史を誇る酒屋がある。千代田区猿楽町にある豊島屋本店である。創業は慶長元年というから、安土桃山時代、江戸なんてド田舎だった時代から、ずっと続いているのだ。

 この店はかつて、上方から樽で酒を仕入れ、驚いたことにそれを原価で売り、残った樽を売り利益をあげた。酒飲みにとっては、拝まずにはいられないような店である。そんな心意気高い400年の老舗を切り盛りする16代目(清酒を造り始めてからは4代目)店主・吉村俊之さんは、法被ではなく金ボタンのブレザーを着こなし、こう語り始めた。

「東京の酒は、長い間、美味しくない、どちらかというと“まずい”イメージを持たれていました」

 やはり、と頷くと同時に、今はどうなのか、と疑問が浮かんだ。吉村さんが続けた。

「70年代末から80年代にかけて地酒ブームもありましたが、その背景には風光明媚な自然のなかで、綺麗な水と米で造られる酒のイメージがあったのです。ところが東京というと、都会で水も空気も汚れているという先入観をもたれがちでした」

 実際、酒造りに綺麗な水は不可欠である。ここで、釈迦ならぬ飲兵衛に説法は承知の上で、日本酒の造り方を説明しておこう。

 酒税法によれば、清酒つまり日本酒は米、米麹、水を原料に発酵させ漉したものである。原料の酒米を精米し(この精米の度合いが大吟醸、吟醸、純米などの違いをうむ)、洗って乾かしてから蒸す。そこへ麹をふりかけ発酵させる。最初、酒母と呼ばれるものになり、やがて醪(もろみ)になったら濾過する。この状態でも立派に酒なのだが、そのまま放っておくと発酵が進んでしまい酸っぱくなってしまう。それを防ぎ、安定した味にするために、火入れ(加熱)して麹菌の活動をやめさせる。そうして完成するのが清酒である。

 日本酒を造るのは主に冬であり、寒造りと呼ばれている。これは、夏場は麹菌以外の菌も活発なため、腐敗してしまうからである。こうした一連の酒造りを担っているのが杜氏(とうじ)だ。江戸期には冬場に副収入を得るため、地方の農民が杜氏として全国の酒どころへ出向いていくようになった。江戸の酒蔵にも越後(新潟)や南部(岩手)などの杜氏がやってきて酒造りをしていた。しかし吉村さんによると、

「江戸の酒は地廻り酒とよばれてあまり評判が高くありませんでした。珍重されたのは灘などから船でやってくる下り酒だったんです。当時、関西から関東へは70万樽ほどあったようです」

 そのため、金銀が関東から関西へどっと流出してしまった。

 そんな背景があって、江戸後期になると、老中首座・松平定信により江戸の酒造りは保護されるようになる。西からの下り酒の量を制限し、米の消費と東西の格差の是正をはかったのである。その流れで定信は、

「寛政二年には“御免関東上酒”という、良質な酒造りを命じました。ただ、期待ほどの成果はあげられませんでした」