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連載歴史・時代小説の歩き方

大矢 博子
2016/12/17

負けるは西だが後で勝つ(後編)
――関ヶ原で動かなかった者たち

genre : エンタメ, 読書

 小早川秀秋の裏切りによって勝敗が決した関ヶ原。そこで西軍の一派として陣を張りながら何もしなかった三つの藩があった――というのが前回のお話。その藩とは、西国の雄・毛利、土佐の長宗我部、そして薩摩の島津だ。だがそれぞれ「何もしなかった」理由が異なる。

 まずは毛利。本家の毛利輝元が西軍総大将として大坂城にいたにもかかわらず、関ヶ原での毛利隊は合戦の間、まったく動かなかった。なぜか。小早川と並んで毛利両川と呼ばれた吉川家当主・広家が東軍と内通していたからなのだ。吉川広家の目的はただひとつ、毛利のお家存続である。

 中路啓太『うつけの采配』(中公文庫)は、吉川広家の一代記だ。広家は徳川につくつもりだったのに、毛利の外交僧・安国寺恵瓊が輝元を「天下とれるよ」と唆して西軍の総大将に据えてしまった。天下を狙うなという毛利元就の遺言があるにもかかわらず、だ。このままでは毛利がなくなる――そこで広家は輝元にも毛利隊の大将・秀元にも内緒で徳川に通じ、関ヶ原の南宮山では防波堤となって毛利本隊を押しとどめた。

 ここで登場するのが、攻めかかれという催促を「我らはこれから弁当を使う。腹が減っては戦はできぬからのう」というスットコドッコイな返事で退けたという有名なエピソードだ。このくだりは小早川秀秋の派手な裏切りの前座扱いにされることが多いが、『うつけの采配』では広家のぎりぎりの綱渡りの場面として描かれる。「戦わない」ことをここまでエキサイティングに書いた小説は他にないぞ。

 不思議に思ったことはないだろうか? 西軍総大将の毛利家が、なぜ取り潰されずに長門・周防の二国を安堵されたのか。そこには吉川広家の知略と情熱があったのだ。この「関ヶ原後の仕置」での広家の活躍も『うつけの采配』の大きな読みどころ。そして毛利の名と領地が残ったことで、幕末、ここから吉田松陰や桂小五郎、高杉晋作らが生まれることになる。

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