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「息子は、二十歳になるはずだった」大川小遺族の7年間

いい判決を肴に息子と酒を酌み交わしたい

2018/03/11
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「俺が的確な指示を出していなかったからだ」

今野さんの両親と、子ども3人が津波で亡くなった

 一方、浩行さんの父・浩さん(当時77歳)、母・かつ子さん(当時70歳)、長女・麻里さん(当時18歳)、次女・理加さん(当時16歳)も津波に飲まれ、亡くなった。発見時の様子からは、避難の準備をしていたことが推測されている。 

 自宅は大川小よりは上流に位置していた。堤防があったために、自宅からは川は見えない。当時の自宅は、現在の改修された堤防道路にかかっている場所にある。震災後は仮設住宅に住んでいたが、内陸部に引っ越した。 

「家族が逃げ遅れたのは、大輔が帰ってくるかどうかを考えていたのかもしれない。それは事前に俺が的確な指示を出していなかったからだ。日頃から、例えば『大輔がいなくても、待たないで避難を』と言っていればよかった。そういう話し合いをしておくべきだった。学校では校長が日頃から防災の体制を取っていなかったが、それは家庭も同じだった。大輔以外の家族が死んだのは自分のせい。直後から『死にたい』と思ってるのは今でも変わらない」 

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「自分の家系は自分で終わり」

 震災後、もう一回、子育てをしたいと子づくりをしたが、恵まれなかった。昨年6月には心臓の手術をした。11時間にわたる大手術だった。7年間で人生が大きく変わった。 

「変化が大きすぎて、ついていけないときがある。子どもがいる人といない人の差もある。自分の家系は自分で終わり。裁判で勝ったら、原告団長という自分の役目も終わりかな。裁判が終わったら、また考え方が変わるかもしれないけれど……」 

子どもたちの写真を見つめる今野さん

 大川小の閉校式も2月24日に行われた。閉校時の在校生は29人。4月から二俣小学校に統合される。前身の釜谷小(1873年に開校)からすると、145年の歴史に幕を閉じた。浩行さんは式に出席しなかった。 

「子どもが一人でも生きていれば行ったかもしれないが、いまは(学校に)恨みしかない。ただ、学校は閉校しても、校舎は震災遺構として残る。子どもたちはもう通わないが、防災を学ぶ場として意味がある。それに、大輔が最後を迎えた場所だから……」

写真=渋井哲也

「息子は、二十歳になるはずだった」大川小遺族の7年間

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