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東北のキャバクラ嬢たちが語る3月11日のこと

震災を体験した少女たちが夜の街で働くまで

2018/03/11

 東日本大震災の被災地のキャバクラ嬢の話を聞き歩いている。というのも、避難所や仮設住宅を取材していたとき、20代の女性と出会う機会が少なかったからだ。仙台市を除くと、東北沿岸部には大学や専門学校が少ない。そうしたこともあり、その年代の女性の話を聞くには、キャバクラはよい場所だと思っている。 

 震災後、宮城県は仙台市と石巻市、岩手県は盛岡市と一関市。福島県は福島市、郡山市の店に行ったことがある。ちなみに、仙台市国分町では震災後1週間ほどで電気や水道が回復し、営業を再開していた。拙稿では、特定を避けるために、どの地域で聞いた話かは省く。 

東北一の歓楽街である仙台の国分町 ©渋井哲也

母親が「あんた、生きてたの?」

 まず、震災当初の話として、もっとも印象的だった2人の話を紹介する。亜衣(仮名、当時20代前半)は津波発生時、車を運転していた。気がつくと、道路から水がわいてくるように見えた。次の瞬間、津波が窓のあたりに到達していた。

「え? 何これ?」 

 これが津波という考えになるまで時間がかかった。津波で近くの駅まで車が押されていた。続いて引き波となった。すでにエンジンはかからなかった。水深が浅くなったとき、亜衣はヒールを脱ぎ、ドアをあけて、泳いで水がないところまで移動した。 

 その日は職場の同僚の家に泊めてもらった。ただ、自宅は海岸の近くにあるため、両親を心配したものの、携帯電話は通じない。翌日、自宅までたどり着くが、案の定、津波被害にあっていた。2階は無事だったので、探すが誰もいない。亡くなってしまったのかと途方に暮れていたら、母親から声をかけられる。 

「あんた、生きていたの? 死んだのかと思った」 

 そんなにあっけらかんと生存確認をしていたのかと思うと、災害時の心理は通常の心理でははかれないことを実感した。 

 また、加世(仮名、当時20代後半)は地震発生時、内陸部にいたため、津波の被害はない。しかし、実家を含む育った場所は沿岸部だ。実家はどうなったのかを聞くと、津波に飲み込まれたと話していた。 

「そのとき実家にいたのは祖母だけでした。小さい頃から祖母に『大きな地震があったら、津波がくるから逃げなさい』と言われていたんです。私がいたところは津波がくるような場所ではなかったので、身を守っただけです。ただ、祖母は、自分が言っていたように、すぐに逃げて無事でした」 

 祖母は昭和三陸地震津波(1933年3月3日)とチリ地震津波(1960年5月24日)の話をしていたという。二つの津波を経験したことで、反射的に備えができていたのかもしれない。では、友達はどうだったのだろうか。聞くと、加世は一瞬、口ごもった。誰か亡くなったのだろうか。 

「あの、実は……。私、友達がいないんです。小学校のときにいじめられ、中学は不登校でした。高校はみんなが行かないような学校に行きました。だから、同世代の子たちとはほとんどしゃべってないですし、顔は知っていますが、連絡先を交換している人はいません」 

 あれから7年が経ち、2人の顔を見ようと店を探したが、なくなっていた。メールも届かなかった。では、震災7年を前に、今、キャバクラで働いている女性たちは、震災をどう体験し、いまの仕事にたどり着いたのだろうか。