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連載中野京子の名画が語る西洋史

中野京子の名画が語る西洋史――復讐するは我にあり

2018/03/21
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「怒れるメディア」1836-1838年、油彩、260×165cm リール市立美術館 ©ユニフォトプレス

 本作については忘れがたい思い出がある。七、八年前、拙著『怖い絵で人間を読む』の元になったTV出演の際、スタッフが某美術館来訪者十数人にこの絵を見せ、どんなシーンを描いていると思いますか、とアンケートを取った。すると例外なく皆が答えて曰く、悪党に追われた母親が、子供を守ろうとしている。

 ――絵は己の感性だけで味わえどらば良し、との鑑賞法がいかに誤解を生みやすいかの好例だと思った。

 確かにヒロインは洞窟へ逃げ込んだところだ。外には追っ手も見える。彼らの近づく気配にぱっと振り返ると、その激しい動きにピアスが揺れてきらめく。金髪の子は目に涙をため、黒髪の子はこちらを見つめてくる。その子のやわらかな太腿に、切っ先鋭いナイフの影が差す……。

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 ギリシャ神話に登場する王女メディアの物語だ。ここに至るまでの、彼女の身に起こった事件はこうだ。

 コルキス王の娘メディアは、国宝である金羊毛を奪いに遠征してきたギリシャの英雄イアソンに恋した。愛を得たい一心で父王を裏切り、国を裏切り、異国ギリシャへ渡ってイアソンの子を二人もうけた。だが不実な男は彼女に飽き、別の女性と正式な結婚をすることに決めた。

 誇り高き王女メディアの怒りは凄まじかった。彼女は恋仇とその父を惨殺し、それでもまだ足りず、もっとイアソンを苦しめるにはどうしたらいいか、彼の残りの人生を悔いと悲しみで塗りつぶすには何が一番かと考えた。

 子どもたちを殺せばいい。イアソンの子とはいえ、自分が腹を痛めた子でもある。それでも構わない。復讐するにはこれしかない。もはや迷いはない。

 それがこのシーンなのだ。

 ドラクロワらしい烈しい感情表現が、画面を震わすほどの緊迫感をもたらしている。メディアの眼は血走り、怒りが理性と母性を圧倒したことがわかる。子どもらは本能的にこの先を予感し、母に殺される運命に怯えている。

 イアソンが駆けつけた時、我が子は骸になっていた。メディアはかつて愛した男に言う、「おまえのせいだ!」。

■異化効果
映画で登場人物がいきなり観客に視線を向け、語りかけてきた時の驚き。スクリーンで展開される事柄は観客と何ら関わりない、と安心して見ていたこちらを激しく動揺させるに十分だ。一種の異化効果を狙ったこの手法は、もちろん絵画芸術でも――単独肖像画をのぞいて――使われてきた。ここでもそうだ。二本の腕の影になって見えにくかった黒髪の少年の、訴えかけるようなそのまなざしに気づいた瞬間……。

ウージェーヌ・ドラクロワ Eugéne Delacroix
1798~1863 フランス・ロマン主義を代表し、近代絵画の先駆者となる。「民衆を導く自由の女神」など。

中野京子 Kyoko Nakano
作家・独文学者。2017年「怖い絵展」特別監修者。最新刊は『ART GALLERY 第5巻 ヌード』。

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