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しんどい洛中――『京都ぎらい』の井上章一が京都に今言いたいこと

京都人の京大観と同志社観

2018/04/02
note
『京都ぎらい』(井上章一 著)

 京都大学へかよう学生に、京都出身の者はあまりいない。さすがに、全国区の大学で、大半は京都以外のところからやってくる。いかにも京都らしい、洛中で代々つづく老舗の御曹司などは、ほとんどいない。

 だが、さがせば、ぽつりぽつりとは在籍していることも見えてくる。たとえば、創業寛永年間という400年近い由緒ある家の跡取りと、でくわしたりもする。

 大学院にのこって学業をつづける、そんな家の子弟から、話を聞いたことがある。うちの両親は、自分が店の跡継ぎとなることを、どうやらあきらめてくれた。今は、弟をてなずけだしている。京大へ入れて、ほんとうによかった。ぼやぼやしていたら、あの家をおしつけられかねなかった、と。

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 おわかりだろうか。京都大学での研鑽は、家出を親に納得させる力をもっている。もう、しようがない。あの子は、京大にとられた。家をつがせるのは、あきらめよう。と、そう親たちをときふせる、世渡りの途に、なっているのである。

 私は1970年代に、洛中の旦那からつげられたことがある。

 君は京大生か。うちらのところではな、近所の家で息子が京大にかよいだしたら、同情されるんや。気の毒に、もうあの子は家の跡をつがへんわ。あの家は、こまるやろな、と。

 同志社ぐらいが、ちょうどええんや。そこそこ、かしこいし、いずれは店をひきうけるボンも、ぎょうさんかようてる。あそこやったら、次の京都をになう世代が、たがいにつきあえるやろ。京大では、それができひん。あんなとこ、あかん……。

©杉山拓也/文藝春秋