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吉田照美が明かす「コミュ障からしゃぺりのプロになるまで」

吉田照美の「話術とは何か」#1

「僕は昔、対人恐怖症でした。今はコミュニケーション障害という言葉がありますが、嘘偽りなく、まさしく僕がそうだったんです。ラジオの僕を知っている人からは、“立派なしゃべりのプロ”と言われることがあります。

 でも、僕にとって話すことは得意でないばかりか苦手で、うまくしゃべれないという自分自身のコンプレックスそのものです。そういう意味では、生涯の職としてだめな分野に進んじゃったということですよね」

 なめらかなトークと親しみやすさ、そして意表を突くゲリラ的企画までをこなして支持を集め、ラジオの黄金時代を担った吉田照美さん。昨年、『「コミュ障」だった僕が学んだ話し方』を上梓し「コミュニケーション障害」の過去を克明に明かした。今の吉田さんを形づくった背景を「しゃべり」の面から伺った。

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コミュ障になる前は今と同じテンションでしゃべっていた

――中学生の頃からコミュ障で悩み始めたということですが、それ以前はどんな子どもだったのでしょうか?

 小学生のころは、漫画家や絵描きになりたかったんです。でも、周りの大人からは「そんなんじゃ食べていけないよ」と諭されるばかりで。下町の少年が、将来絵を描いて身を立てるなんてありえない時代だったんでしょう。

 ただ、当時の僕は絵や漫画を描いているだけの、寡黙な少年ではなかったです。それどころか話し好きで、今のオンエア上の僕と同じテンションで友だちともしゃべっていたと思います。

©山元茂樹/文藝春秋

 育ったのは東京の下町で、『三丁目の夕日』や『男はつらいよ』そのままの世界です。娯楽といえば、ラジオか映画。もう少ししてテレビ。わりあい早い時期にテレビを買ったわが家は、近所の人のたまり場でした。上品ではないですが、皆人情味がありましたね。そんな環境がその後のしゃべり方にしろ考え方にしろ、僕の土台を作ったんだと思います。

 しゃべり方は当然、両親から影響を受けています。僕の親は上手いとか下手とか関係なく、とにかく一方的にしゃべる。しかも声が大きい。人の話なんて聞いていません。両親揃ってこの調子ですから、家族の会話はたいへんです。父も母も、自分の声で相手の声がかき消されますから。

 それを僕は受けついでいるから、聞く姿勢には反省するところがあるかもしれませんね。でも、会話は雰囲気が盛り上がればそれでいいんじゃないでしょうか。何も盛り上がらない話をするのだったら、マイナス要素があっても、盛り上がりのある会話のほうが楽しいですから。

 のちにビートたけしさんが『オールナイトニッポン』に登場してラジオ番組に革命を起こしますが、たけしさんのしゃべり方が僕にとって実感があるのは、こうした下町育ちが影響しているんだと思います。

モテ期は中1。早すぎたかもしれない

――コミュ障になったきっかけは何だったのでしょうか?

 コミュニケーション障害、いわゆるコミュ障が始まるのは、中学に入ってしばらくしてからです。

 それまでは学校の成績もよく、テレビや漫画を話題にして友だちと盛り上がる、明るい男の子だったんです。背も高くて女の子にもけっこう人気があったんですよ。モテ期が早すぎましたね。それがだんだん勉強をしなくなり、成績も下がっていきます。どんどん目立たない方に引っ込んでいっちゃって。ただ瞬間、女の子に人気があったっていうのは救いで。あっという間でしたけど。

 親は小学生時代の出来のいい息子を知っているだけに、中学生になってからさらに期待をかけてきますが、それに応えられない。だから「何も取り柄がないな」と自分でだめのレッテルを貼るようになってしまったわけです。

 そのころ、好きな女の子がいたのですが、彼女は勉強ができて運動神経のいい優等生タイプでした。彼女の好きな男の子も、同じく何でもできる優等生。僕は落ちていく一方でしたから、彼らとの差がプレッシャーで仕方ありませんでした。

 そんなことで好きな女の子にはコンプレックスから近づけないし、中1までのモテ期の反動でなおさら暗くなっていくんです。勉強をしなくてはと焦るけど身が入らず、時間をただただ浪費するだけの日々だったように思います。

 そのころの唯一楽しい時間は絵を描くことでした。絵は子どもの頃から変わらずずっと好きで、高校入学後も受験の前までは続けていました。絵って凄いな、という出会いもこのころです。ダリの『記憶の固執』という作品で、ぐにゃっと曲がってる時計から受けた衝撃は今でも変わりません。ラジオの仕事のかたわらで絵画制作を本格的に始め、いまも続いているのも、この時の衝撃が残っていたんだと思います。