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たけし独立騒動で考える「天才の相棒」という才能

たけし独立騒動で考える「天才の相棒」という才能

世界の北野が、足立区のたけしに戻れるとき

2018/04/07
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芸術家になったたけしを、変わらずに「相棒」と呼ぶ男

 いっぽうで、たけしも映画監督としてフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られるなどして、お笑いの大御所のみならず、「芸術家」扱いされるようになっていく。

《亡くなった浅草ロック座の斉藤ママとか、「おい、たけし」とか呼び捨てで、楽しかったなー。でも、あのママも途中から、オレのことを「監督」って持ち上げ出しちゃって、怒ってくれなくなった》(注4)。

 そんなふうに昔なじみにさえ「監督」と呼ばれるようになってしまったたけしを、変わらずに「相棒」と呼ぶ男がいる。ビートきよしだ。そんなきよしの誘いで、たけしは漫才をはじめる。冒頭の言葉に従えば、初めて組んだ漫才コンビで売れた、たけしは天才である。

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2014年7月、国立演芸場「第26回新人漫才大賞」で漫才を披露するビートきよし(左)とビートたけし

たけしが「バイク事故」から復帰した場所

「面白い方だけでいい」と、コンビでなくたけしのみが売れていったけれども、ツービートは解散することはなかった。たけしは、ツービートは「原点であって、いつでも帰れる場所だと思ってるんで。きよしさんも俺もお互い年だけど、お互いくたばりかけて“コンビもう一回やろうか”って」と対談できよしに語りかける(注5)。ちなみにバイク事故からの復帰の場所は、退院の足で直行してゲリラ出演した、きよしの漫談の舞台であった。

「『足立区のたけし』を『世界の北野』にしたプロデューサー」、雑誌の軍師特集のなかで、ダンカンが森社長を語った記事のタイトルである。しかし、たけしはいつまでも漫才師なのだろう。たけしは参謀と訣別したけれども、相棒とはずっと一緒だ。

(注1)https://news.yahoo.co.jp/byline/larrytoda/20160229-00054895/
(注2)ダンカン「森昌行 『足立区のたけし』を『世界の北野』にしたプロデューサー」文藝春秋SPECIAL2013冬号
(注3)森昌行『天才をプロデュース?』新潮社・2007年
(注4)週刊実話4/12号
(注5)ビートきよし『もうひとつの浅草キッド』双葉文庫・2017年

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