昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載オカンといっしょ

オカンといっしょ #19 Purple(後篇)「粉々になった夢の残骸。きらきら光る空」

ツチヤタカユキの連載小説

genre : エンタメ, 読書

「人間関係不得意」で、さみしさも、情熱も、性欲も、すべてを笑いにぶつけて生きてきた伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ。これは彼の初めての小説である。

 彼は、父の顔を知らない。気がついたら、オカンとふたり。とんでもなく美人で、すぐ新作(新しい男)を連れてくる、オカン。「別に、二人のままで、ええやんけ!」切なさを振り切るように、子どもの頃からひたすら「笑い」を摂取し、ネタにして、投稿してきた人生。いまなお抜けられない暗路を行くツチヤタカユキの、赤裸々な記録。

◆ ◆ ◆

「芸人辞めて、ヤクザになりはったんですか?」

「せや。芸人辞めてからが大変や。水商売を始めてんけど、すぐに金が上手く行かんようになって、ヤクザに借りたりせなアカンようになって……」

 クジラぐもさんは、排水口に吸い込まれて行く時の水の渦のように話す。

「そのまま流されるがままに、ヤクザになってたわ」

 芸人時代に舞台上で聞いた笑い声は、今になってもずっと耳に残ってるんやろか?

 深夜高速の下は田舎町で、難波とは違い、頭上には満天の星空が広がる。

 それが今日は、粉々になった夢の残骸が空に浮かんでるみたいに感じた。

「自分の子どもが生まれた時も、自分のこの生き方を邪魔する存在が現れたって気分やった。だから、ずっと情が移らんようにしとってん」

 今夜は粉々に潰れた夢が、星になって浮かんでる。その砕けた夢さえも、手を伸ばしても届かないくらい、高い位置にある。

「その頃からウチの親分がおかしくなってな、金をせびりにやってくるようになってん。毎日、金を100円単位まで根こそぎ持って行きよる。その頃、俺のガキは赤ちゃんやったのに、ミルク買う金も無い。だから、代わりにお茶を飲ましとってん。そしたらな、それをミルクと思って飲みよる。でもな、全然栄養が無いから、全く泣かんようになってん」

 クジラぐもさんは、昔の傷跡を見せるみたいに語った。それは紙やすりで、心臓を削られているみたいに、苦しい話だった。

「だから、ヤクザ辞めてん」

「どうやったら、辞められるんですか?」

「ただ、その街から居なくなればええ。とんだって事になるから」

 今夜も巨大なハシゴで、夜空に昇っていく月。イカ墨のパスタを食べた後の、口元に付着したソースを広げたような空。それが今夜は、こんなにも低い。どんどん下に降りて来て、全ての人間を、押し潰そうとしてるみたい。

 今日も、この地面をナメクジのように、這っている。迫り来る空に押し潰されないように。

「ほんで、神戸から大阪に出て来た。その時になって、やっと親に言えてん」

「ヤクザやっとった事をですか?」

「せや。でも、背中に墨入ってるんは言われへんかった。だから今も知らんねん」

 学校の帰りの、駄菓子屋への寄り道のように、寄り道ばかり繰り返す、大人の放課後。

「ほんで、何も無いとこからスタートして、今はIT企業の社長や。いろんなもんになり損ねても、人間は何回でもやり直せるねん」

 ずっと話に聞き入っていたせいで、閉じるのを忘れていた口の中が乾燥している。

「いっつも、こう思って来た。これからや。ここからや」

 そう口にするクジラぐもさんの、心音が聞こえて来る。その鼓動は、とてつもないスピードだった。

 人間は何度だってやり直せる。再生できる。365日を何回も超えて。

「第1志望の人生やなくても、幸せな日は必ず訪れる」

 そして、そんな幸せな一日の話が始まる。

「自分のガキにはずっと情が移らんようにしとったやろ? だから初めてお風呂に入れたんは、ヤクザを辞めた後。その子が3歳の時やった」

 そこからようやく手を繋いだり、抱きしめたり出来るようになったと、クジラぐもさんは言った。

「風呂場で体を洗ってあげる時にな、子どもの何も無いキレイな背中を見てな、泣きそうになってん。親にホンマにごめんって気持ちになってな。この子の背中だけは守らなアカンって思ったわ」

 羽毛布団の中にふわふわの羽毛がたくさん詰まっているみたいに、この人の中には愛が詰まっている。

◆ ◆ ◆

つづく(※小説「オカンといっしょ」は毎週金曜17:00に公開します)