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発掘!文春アーカイブス

マスコミの大家・大宅壮一が綴った 戦後、世田谷の奥で百姓をしていた時代(後編)

ユーモア溢れる文体で自身のマスコミ生活を振り返った

2018/05/06

source : 文藝春秋 1965年2月号

genre : ライフ, 働き方, メディア, 読書, テレビ・ラジオ, ライフスタイル

1時間65銭では大きい声は出せない

 その後、東京にでてきて、鉄道学校の教師をしばらくした。生徒の半分以上は私よりも年上で、その前後、東映の社長をしている大川博も生徒でいた。

 このとき学校で生徒のストライキが起ったが、生徒側が学校に出した要求の中に「教員の待遇改善」という一項が入っているのが面白かった。「教員の待遇改善」というのは、教員の中にアメリカ帰りの老人がいて、この人の講義の声が非常に小さい。教壇に立ってボソボソしゃべるので、生徒が、聞えないからもっと大きな声を出してくれというと、「私は1時間65銭の給料だ。65銭でそんなに大きな声が出せるか」といった。

 これには生徒も同情して「教員の待遇改善」の一項が要求の中に入ったわけだが、私はこの老人のアメリカじこみの合理性(?)に、ちょっとばかり感心した。私の場合はもっとずるく、生徒に英習字をやらして机の上で原稿を書いていた。

©須田善一/文藝春秋

人夫の“小頭”になる

 この鉄道学校は関東大震災のときに焼けてしまい、生活に困るようになって、私は人夫になって働いた。各地から送られてくる救援物資を貨車からおろしたり、トラックにつみこんであちこち配ってまわったり、路上の死体を片づけたりする仕事だった。

 1日5円で弁当つき、というのは当時としては高給だったので、喜び勇んで仕事をした。鉄道学校の給料が、1時間授業で85銭だから、わりのいい商売であった。ところが、その人夫の中に鉄道学校で教えた生徒が何人かいて、私の顔をみると、どこであろうと「先生」「先生」と敬礼する。

 その結果、人夫仲間で私には「先生」というあだながついて、だんだんに顔がきくようになり、ついには人夫の“小頭”という地位にまで出世した。私はこのとき以来、自分の体力と、才能に自信がつき、「おれはいざという場合、人夫をやっても“小頭”にはなれる男だ」という確信をもつようになった。

 だから、敗戦直後、文筆業が成立たなかったときにも、私はそれほどあわてなかった。世田谷区の奥の方にひっこんで、百姓をしてくらすことができた。

「あの家に行くと殺される」という評判の真実

 百姓といっても米も麦も野菜も、なんでも作る百姓で、なんでも作るところは原稿用紙を土にかえただけで似ているが、とにかくものを書かずに数年間もちこたえたのは、“小頭”時代の自信のたまものだと思っている。

 このとき一人で4反歩近い畑を耕していたが、忙しくなるとときどき近所の農家の人たちに手伝いを頼むようになった。ところがいつしか「あの家に行くと殺される」という評判が立っているのを知った。

 私は酒も煙草もやらないし、休むという精神、習慣が全くない。だから近所の人が私のところへ手伝いにくると、朝から晩までぶっつづけに働かされる。主人が休まないから、休めないことになるのだ。しかし私はこれでまた、体力に自信をつけたのである。

©樋口進/文藝春秋

 とにかく約半世紀にわたり、マスコミの中で生きて、肉体とスタミナに自信をもっていた私も、昨年の夏はすっかりやられた。ふとりすぎたため米粒は一切食べず、コンニャクとビフテキだけ食べていたので、栄養失調になったのだ。ボクシングでいうと、ロープダウンでドクターストップというところだった。いまやっとよろめきながら、その状態から立ち上ったばかりである。

(これは昨年暮の「文春まつり」講演に手を加えたものである。)

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