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桑原 武夫
2018/05/04

東大生が選んだもっとも尊敬する学者・南方熊楠 真の魅力は庶民性にあり(後編)

フランス文学者・桑原武夫の南方熊楠論

source : 文藝春秋 1952年12月号

genre : ライフ, 読書, ライフスタイル, 歴史, 社会

粘菌の研究で知られる明治の大学者・南方熊楠をご存知でしょうか。

10歳にして『文選』を暗記し、イギリスへ留学したり日本で民俗学の発展に貢献したりと、その才能は細菌学にとどまらなかったようです。今でも根強い人気を誇り、東大生が選ぶ尊敬する学者でも1位に輝いています。(参考:さんまの東大方程式 フジテレビ系列)

そんな明治の大学者を、フランス文学者であり文化勲章を受章した桑原武夫氏が描いた記事の後編です。

出典:文藝春秋 1952年12月号「南方熊楠の学風」

前編〈東大生が選んだもっとも尊敬する学者・南方熊楠 その奇行の真相とは〉の続き

日本はいかにして“大学”を輸入したか

著者・桑原武夫氏 ©文藝春秋

 日本の大学は明治のはじめに東京大学ができたとき、ヨーロッパ主としてドイツの大学制度を模倣したのだが、それがそのまま固定してしまった。

 時代の要求に応じて若干の講座増設はあったが、最初からあるものは決して改廃されることがなく、ことにその後、京都大卒以下の帝国大学が新設されるにあたっても、いたずらに東大を締小再生産するのみで、何ら独自性なく、京大で東洋学の講座を東大より多くしたというようなのは全く例外であって、ドイツ以外世界の大学のどこにもないローマ法の講座をどこでも拵えたがるという風であった。

 敗戦後、講座制の廃止ないしは講座の改廃が一時問題となったが、日本の大学における左派右派に共通の現状維持精神のレジスタンスが勝利したのである。

 明治のはじめの大学が西洋文化の移入を目標としたのは、その時代として当然であり、また今日といえども外国文化はつねに摂取すべきであって、野郎自大はさけねばならぬが、日本のアカデミは西洋の学説史の研究のみにふけり、その学説をふまえて日本の民衆の生活と文化を明らかにし、これをよくするという努力に欠けていた(日本の経済学者は実は経済学学者にすぎぬ、と都留重人氏にひやかされるような点が多かったのだ)。

 昨年私は札幌に行ったとき、北海道大学でフランス文学の講座を新設したいという話をきいたので、私自身フランス文化の研究に従うものではあるが、反対した。フランス文学は蔵書の多い東大、京大等でやればよい。北大でもし金がとれるのなら、それより北方文化研究所を拡充してアイヌ文化を徹底的に研究すべきだといったのである。ふたこと目にはシュミット、マリノフスキー、ボアスなどといいながら、目の前にあるアイヌを実地研究しようとしないのが、日本の学界なのであった。

日本民俗学の先駆者

 大学論に逸脱したようだが、そういう大学の講座題目にある学問はとかく移入はされたが、それ以外の新しい学問分野はないがしろにされる傾向にあった。大学に講座のなかった、そして今もほとんどない民俗学はもっぱら民間学者の努力と精進によって日本に樹立され、しかも日本の人文科学において世界的に独創性をもつ少数の学科の一つとなったのである。

 国家権力のみいたずらに強大で、民間の資本も組織も弱い日本で、一科の学を成長させるということが、いかに偉大な仕事であったかということは、幾度くりかえしても十分ではない。その偉業は柳田国男氏を中心とする人々によってなされたのだが、南方がそれに先立って、ヨーロッパの民俗学をはじめて極東ないし日本の文献または事象に適用し、日本民俗学の先駆をなした功績は高く評価しなければならない。

 彼は後の民俗学者のように日本をくまなく実地踏査するようなことはなく、その見聞に入ったのは紀伊熊野にすぎないが、稀代の記憶力によって支えられた東西の文献の活用においては後の人々に却ってまさり、幾多の問題を解明し、あるいはその糸口をつけた。

 私は門外で不たしかであるが、たとえば邪視(evil eye 見毒ともいう)というのは、ギリシア神話のメデューサの話で周知のように、特定の人または怪物に見られると、見られただけで害をうけることで有名なメリメの『コロンバ』にも出ており、世界いたるところに見られる信仰である。

 これをインド、シナ、日本などの文献によって明らかにしたのは、そしてたとえば今日でもなお民家の門口にザルをかけてあるのは、邪視よけであることを示したのは、恐らく南方が日本で最初であろうと思われる(明治42年以後、1・227、286等)。

 些細なことのように思われるかも知れないが、この考え方によって、たとえば股周の古銅器のトウテツの意義、猿田彦とウズメノミコトの説話、世界各地に蛇をモチーフとした繁雑な模様が用いられる理由などが解明されるのである。

 しろうとの私がこれ以上例をあげるのはやめたいが、彼が民間伝承の個々の点について明らかにしたことは甚だ多い。そうした研究において、彼はつねに実証主義に立ち、自己の好悪をもってものを見そこなってはいない。彼は仏教を愛し、これを深く研究し、日本の優秀分子がキリスト教に改宗するいことを不可としているが、にもかかわらず日本の仏教徒、とくに僧侶の甚しいダラクを決して見のがさず、これを容赦なくやっつけていることは、神官に対すると同様である。(同時にキリスト教も中世にいかに残忍でダラクしたものであったかの例は、彼の著作のいたるところに示されている。)

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