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連載松尾諭「拾われた男」

松尾諭「拾われた男」 #14 「滋賀の田んぼのマンションで、父の壁紙に絶句した日」

2018/04/29

genre : エンタメ, 芸能

 生まれ育った家はさして広くもない長屋のような平屋で、物心ついた頃から兄と同じ部屋だった。中学になって、団地に引っ越すことになり、念願の一人部屋かと思いきや、増えた部屋は納戸だけで、高校に入っても兄と同じ部屋、同じ二段ベッドだった。高校2年になって、兄の圧政に耐えきれず、3畳の納戸に机と洋服ダンスと布団を持ち込んで、そこを自分の部屋とした。窓もなく、空調もないので、夏は暑く、冬は寒かったが、初めて自分だけの空間を持てたことが嬉しかった。でもやっぱり狭く居心地が良いとは決して言えなかったので、大学に入ったらすぐにでも家を出ていってやると決意した。

「そうか、わかった。もう帰ってこんでええ」

 高校時代は留年をギリギリ免れるといった成績で3年間を過ごしたものだから、大学受験は関西の私大の名門四校、関関同立を狙うと言うと、母はとても驚いた。なので、もし合格したら一人暮らしをしていいかと聞くと、受かるわけがないと言いたげな顔で「ええよ」と答えた。結局一浪はしたものの、なんとか関関の関の一つに合格した。合格通知とともに、早速一人暮らしの件を母に切り出した。

「一人暮らししてええんやろ?」
「ええけど、あんたお金どないすんの?」
「出してくれへんの?」
「そんなお金あるわけないやろ」

 言われてみればその通りだった。

松尾諭さん、舞台出演中です! KAAT神奈川芸術劇場×世田谷パブリックシアター「バリーターク」/神奈川公演:KAAT神奈川芸術劇場<大スタジオ> 上演中~5月6日(日)、その後東京公演、兵庫公演あり 撮影:細野晋司

 一人暮らしに憧れる理由はもう一つあって、それは父が設けた門限だった。父は、どちらかと言えば厳格な人だったので、高校生の息子にすら門限をとやかく言った。

 大学1年の冬、カナダからの帰国子女の友人宅で遊んでいると、彼が思いついたように「今からスノーボードに行こう」と言い出した。当時流行り始めていたスノボというものに興味はあったし、モテそうな匂いもしたが、なかなか手を出せずにいたところを、カナダ帰りの友人が教えてくれると言うので、誘いに乗ることにした。道具は彼が貸してくれる事になったが、防寒着はサイズが合わないので、彼の車に乗って家に取りに帰った。時刻は夜の10時過ぎ、家に入って、なるべく物音を立てないようにカバンに必要なものを詰め込んで、またこっそりと家を出ようとすると、父に呼び止められた。

「どこ行くんや?」
「友達のとこで試験勉強するねん」
「何時やと思ってんねや?」
「まだ10時やん! しかも大学生にもなって、まだ門限とか言われんの!?」
「そうか、わかった。もう帰ってこんでええ」
「え?」
「もう帰ってこんでええ」

 そのままスノボに出かけたきり、家には帰らず、友人宅で2週間、先輩宅で2週間を過ごした後、なんとか金を工面して、ワンルームの部屋を借りた。念願の一人暮らしは快適だったが、一人の夜は寂しかったし、家賃や生活費を稼ぐためにバイト三昧の日々が続いたことで、大学への足も遠のいた。