昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

星野仙一と松坂大輔のDNAを受け継ぐ男、中日・柳裕也の挫折と復活

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/05/04

 この男はやると思った。

 去年12月、私は柳裕也と鍋を囲んでいた。彼の愛くるしい笑顔は周囲を和ませる。楽しい会食の途中、ふいに右腕は箸を止めてつぶやいた。「どっちがドラフト1位かって感じですよね」。自嘲気味に笑い、ほんの一瞬だけ悔しさを滲ませた。

 2016年のドラフト会議で柳は中日とDeNAから1位指名を受けた。横浜高校、明治大学とエリート街道の真ん中を歩んできた背番号17には大きな期待が寄せられていた。

 しかし、キャンプ中に右肘を痛め、開幕は2軍。5月に初登板、6月に初勝利と順調にステップを踏んだのも束の間、今度は人生初の広背筋痛。「ひどい時はシャワーを持つことができませんでした。背中から右脇腹にかけて激痛が走るんです」。

 11試合1勝4敗。防御率4.47。これが1年目の成績。明らかに物足りない数字だった。

 一方、2位指名の京田陽太は大活躍。あの長嶋茂雄に迫る新人安打数を記録し、セ・リーグ新人王に輝いた。

 シーズン当初、柳は同期の躍進に目を細めていた。「よく寮でナイターを見て、応援していました。京田、打てよ! って」。

 しかし、秋の気配が漂い始めた頃、心境が変化する。「正直、もういいよって」と苦笑い。投げられない日々が続いていた柳。京田のバットから快音が聞こえるたびに情けなさが体を包む。1位が2位に抜かれる景色を凝視できずにいた。

 ただ、柳は引きずらない。もう前を向いていた。

「あいつと一緒に活躍したいんです。大学時代も日の丸を付けてともに戦った。僕の後ろには京田がいた。今は完全に置いて行かれていますけど、来年は絶対」。力強いまなざしに今度は私の箸が止まった。

ルーキーイヤーは怪我に苦しんだ16年ドラ1・柳裕也

「1分でも1秒でも、一緒に野球をしていたい」

 1月4日。星野仙一、逝去。

「実家の宮崎で知りました。全く信じられませんでした」。訃報を整理できるまでかなりの時間を要した。

 去年、明治大学の大先輩は中日の1軍キャンプ地である北谷を訪れ、「怪我だけはするなよ」とルーキーに声をかけた。ひたすら頭を下げる柳の右手を掴み、がっちりと握手。「身が引き締まる思いでした。あの時の写真は寮の部屋に飾っています」。

 再会は去年11月だった。東京で開催された野球殿堂入りを祝う会。僅かな時間だが、柳は控え室で挨拶できた。「怪我するなって言っただろ」。この愛あるダメ出しが最後の言葉だった。

「自分は何をやっているんだと思いました。偉大な人が心配してくれている。ご自身のパーティーでこの僕を」。会場に戻ると、右も左も列席者でいっぱい。主役は遠くのステージでマイクを持っている。柳は心に決めた。

「絶対、星野さんに認めてもらえる投手になってやろう」。

 1月23日。松坂大輔、中日入団。

「今でも普通にファン目線です」。松坂の話になると、柳は笑顔が弾ける。「やばかったです。嬉しすぎて。松坂さんが中日に入ると聞いて、テンション上がりまくりでした」。

 宮崎県都城市で生まれた柳。小学6年生の時、父を交通事故で亡くした。あまりのショックで喪主を務められなかった母に代わり、柳は葬儀で挨拶。「将来はプロ野球選手になって家族を守る」と誓った。

 その夢を叶えるべく、進学先に選んだのは横浜高校。「松坂さんに憧れていました。ただ、高校時代の春夏連覇は覚えていません。やはりメジャーでの活躍やWBC連覇が印象的。スーパースターです」。

 キャンプから今もなお夢のような時間が続いている。「まさか同じユニフォームを着られるなんて。オープン戦中、松坂さんとロッテの涌井(秀章)さんと食事をした時も興奮しすぎて、何を喋ったか、あまり記憶になくて」と笑う。

 若武者に松坂効果は確実にあった。

「とにかく一緒に野球をしていたいんです。1分でも1秒でも。そのためには必ず1軍でローテーションを守らないといけない」。熱い思いを語る柳の目はキラキラしていた。

 同期の存在。闘将の旅立ち。夢の時間。

 2年目右腕のモチベーションが上がらないわけがない。ただ、その気持ちが高ぶりすぎたのか、今シーズン初登板の巨人戦は4回途中4失点KO。「最初から流れの悪い投球でした」と唇を噛んだ。