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前川喜平氏を呼びつけた首相補佐官の正体――「官邸官僚」の研究

霞が関の常識を覆す“新型官僚”が跋扈している

2018/05/15

最終ポストは局長止まり

 一般に霞が関の中央官庁では、東大法学部の卒業組である事務系官僚が次官に昇りつめるケースが多い。が、建設省と運輸省の流れを汲む国交省では、理系の技官もトップになれる。国交省のキャリア組は、法学部出身の事務官と工学部出身の技官が存在し、さらに技官は土木技官と建築技官に大別される。

 旧建設省系の技官は、同じ東大工学部でも専攻により、道がわかれるわけだが、次官になれるのは、入省時に土木系の道路局や河川局に配属された者とされる。和泉は入省後、住宅建築技官として住宅局に配属されたが、これはいわば傍流扱いで、入省時から最終ポストが局長止まりとされてきたのである。

「東大の都市工学科は、昭和39(64)年の東京五輪招致が決定し、そこに合わせて新幹線や高速道路の建設を進めて日本の骨格をつくろうという発想から新設されました。高山英華(えいか)が教授で丹下健三が助教授、あとは建設省の役人が講義をしていました。僕はその1期生で、和泉君とはずい分歳が離れているけど、根っこは同じです」

 そう話す上野公成は、和泉と同じく、東大都市工学科から建設省住宅局に入り、のちに自民党参議院議員に転身した。入省したての頃から和泉をよく知っている。66年東大卒業の上野は和泉の10年先輩にあたり、後輩を手放しでほめる。

小泉政権で官房副長官を務めた上野公成 ©文藝春秋

「僕らの時代には就職先として役人になりやすく、9人が国家公務員になった。なかでも建設省は入りやすくて8人もいました。しかし、いざ建設省に入ると、なかなか思うようなところへ行けない。同じ理科でも電気や機械だとデータ処理に強みがあるけど、都市工学科は専門性がない分、自分の才覚で省内の政策を切り抜けていくより仕方がない。専門的な固定観念がないから、才覚さえあれば突き抜けるし、雑魚みたいな役人で終わることも多い。和泉君は突き抜けたね」

さらなる飛躍は小泉政権時代

 官僚人生における和泉の最初の転機は、83年の群馬県高崎市への出向だった。入省8年目の29歳。官僚はたいてい若い頃に地方自治体勤務を経験するが、和泉は都市計画部次長として高崎市に赴任した。その人事をおこなったのが、先の上野だ。こう語った。

「高崎は僕の生まれた町で、市長から誰かいい人がいないか、と頼まれてそれまでも建設省から何人か送り込んだ。和泉君もそのうちの一人でした。彼は要領がいいというか、頭の回転が速いから、すぐに溶け込んでいろんなことができたようです」

 高崎市への出向は、国交省内でもなかば伝説的に語られている。元同僚の一人が話した。

「住宅局や都市局は地方の行政と直接つながっていますから、都市計画部への出向はまれな人事ではありません。ただ高崎というところは、中曽根康弘や福田赳夫、小渕恵三という首相経験者を輩出してきた群馬の中心。というより日本の政治の中心に近く、彼がそこに出向したのは大きかった。そこから政治とのつながりができ、本省に戻ってからは、上野さんも国会議員になって後ろ盾として機能していったのです」

 和泉は98年、住宅局住宅生産課長に就任した。この時点で将来の住宅局長を約束されるポジションに就いたといえる。

 そんな和泉がさらに飛躍したのは、小泉純一郎政権時代だ。省庁再編後の01年1月、国交省の住宅局住宅総合整備課長となった和泉は、翌02年7月、内閣官房都市再生本部事務局次長に抜擢される。このときに和泉を引き上げたのも、小泉内閣で官房副長官を務めていた上野だった。当人がこう打ち明ける。

和泉は小泉政権においてさらに飛躍した ©文藝春秋

「あの頃は、バブル崩壊後に塩漬けになった土地をどうにかしなければならなかったが、流行りの地方分権で自治体に任せれば任せるほど動かなかった。なにより自由な都市計画を立てなければならない。しかし、当時の都市計画法では固すぎたのです。それで、新たに都市再生法という法律をつくりました。霞が関の各省が反対できないよう、計画地域を閣議決定事項の内閣の政令で決める。すると国交省も農水省も反対できません。僕が小泉政権で官房副長官になり、音頭をとってその都市再生法をつくった。そのために事務局次長に和泉君を呼んだのです」

 都市再生本部は、01年5月の閣議決定に基づき、内閣総理大臣を本部長、関係大臣を本部員として内閣に設置され、翌02年6月施行の都市再生特別措置法に基づく組織になる。和泉は先輩の上野により、その都市再生本部の事務局という内閣官房組織にヘッドハンティングされた。どんなに頑張っても局長どまりとされていた住宅建築技官が初めて内閣官房という権力の中枢で仕事をし、そこで一定の評価を得たのである。

 小泉政権による規制緩和の下、地域を限定する都市再生とは、イコール特別経済区域構想である。ここから和泉は構造改革特区構想を手掛けるようになり、特区の専門家としての現在がある。

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