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なぜ下町「谷根千」はリピーターの外国人観光客を魅了するのか

50年後の「ずばり東京」――「谷根千」下町と観光地の狭間で #1

2018/05/26

 2009年の夏、26年続いた地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を終えた。そのとき、私はもうこの地域そのものには関心を持つまい、と決めた。あとは次世代に任せよう。関心を持つと干渉したくなる。「老兵は死なず、あとはただ町で遊ぶのみ」とつぶやいた。

 執筆、編集、配達に追われつつ、同時にイベントを企画・主催し、人を楽しませる事ばかり考えてきた。それゆえ自分は楽しめず、ゆっくり町を歩く暇もなかった。

著者・森まゆみさん(作家) ©文藝春秋

 この地域が「谷根千」という愛称で呼ばれるようになったのは、私たちの創刊した雑誌「谷中・根津・千駄木」がきっかけだ。震災、戦災を逃れた町の歴史や暮らしを聞き書きによって記録し、町を乱開発から守りたいというのが目的だった。だから、横文字の小洒落たタイトルにしたくない。私が生活圏と感じるこの町でやります、という宣言としてこの誌名にした。

 季刊の雑誌を始めた1984年、私たち3人の女性スタッフはまだ20代で、地域にある300の店に手分けして雑誌を配っていた。誌名が長すぎるので「谷根千、あと10冊持ってきてちょうだい」と縮まるのに時間はかからず、事務所の名前も早々に谷根千工房と変えた。

 1965年に谷中・三崎坂で「すし乃池」を開いた野池幸三さん(92)は、当時三崎坂町会の会長だった。

「台東区長だった内山榮一さんが街おこしのスローガンとして“下町ルネッサンス”を打ち上げた頃だね。谷中でも何かやってくれろ、ということになり森さんと会ったんだ」

©文藝春秋

 台東区は浅草と上野という2大観光地をもっており、谷中は寺と墓地くらいしかない土地として区は町を盛り上げるための努力をほとんどしていなかった。江戸時代、谷中は下町ではなく場末であり、住民たちは図書館もないわが町を「台東区のチベット」(チベットの皆さん、ごめんなさい)と自嘲していた。

「私が店を開いたときは土地代が10坪で300万くらいだったね。当時、寺ばかりで抹香臭い、と人気がなかったからかな。開店の時は文京区側の坂の名を借りて『団子坂下乃池』と名乗ったもんだ」

 団子坂は江戸から明治まで菊人形の見世物が行われ、二葉亭四迷「浮雲」、夏目漱石「三四郎」、森鴎外「青年」、江戸川乱歩「D坂殺人事件」などに登場する文学の香りのする場所だ。周辺は江戸初期から町が形成され、関東大震災では無傷、空襲の被害も比較的少なく、古い家が残っていた。広い空、木造の町、職人の手仕事、暮らしの流儀、残したいものがいっぱいあった。

©文藝春秋

 谷中を盛り上げたいという野池さんと私は意気投合し、84年秋に谷中・大圓寺をお借りして町のみんなで菊まつりを開催。そこで、たった12ページの雑誌「谷根千」をデビューさせた。

「暮らして楽しい町を作る」
「普通の人の生き死にを記録する」
「お互いさまの生活文化を大事に」
「小所低所に立って水平のコミュニケーションを生み出す」

 これが私たちが雑誌をつくる際に掲げた目標だった。

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