文春オンライン

「どこからどこまでがセクハラ?」と悩むあなたへ――2018年のセクハラ問題の本質

「上司の娘さん」にそれができますか?

2018/05/21
note

そして女性記者が増えた結果……

 ウラとオモテがあり、ウラでは力関係が弱いという構図の中で、記者は当局とやりとりしている。ウラは閉ざされているので、いくら反権力を標榜しているメディアだとしても、そこで生じる問題はオモテには出しにくい。だから密室でのハラスメントを撥ねつける自由がなくなってしまう。

 この構図は、女性記者が増えてからかなり変容した。夜回りはかつてはむさ苦しい男と男のぶつかり合いで、場所も当局幹部の自宅の玄関前や居間だった。しかし女性記者が増え、LINEなどのメッセンジャーが使えるようになって自宅外でも会えるようになると、結果として下心を持つ当局幹部が増えるということになり、その結果女性の方がネタを取れるようになり、マスコミの側も意識的にか無意識的にか女性記者を夜回り取材に当てるようになった。しかしこれは女性記者個人の責任ではまったくない。

問題は日本社会特有のヒエラルキー的構造

 まとめよう。セクハラは男女関係だけの問題じゃなく、たいていの場合にはその裏側にある力関係と一体化している(もちろん、力関係など関係なくセクハラ言動まっしぐら、という野獣のようなオジサンもごく少数ながらいることはいるだろう)。

ADVERTISEMENT

 しかもこの力関係は、「上司の娘」論点でもわかるとおり、日本の社会に特有のヒエラルキー的な構造と密接に関係している。このヒエラルキー的な力関係を壊さない限り、この社会からいつまでもセクハラはなくならないんじゃないかと私は悲観的に思っている。

 付け加えれば、ヒエラルキー的な力関係はセクハラだけじゃなく、別の問題もたくさん引き起こしている。ひとつ例をあげれば、裁量労働制の対象拡大や高度プロフェッショナル制度(高プロ)の議論もそうだ。裁量労働制を認めればブラック労働になってしまうというのは、日本の会社員には「裁量」がほとんど認められていないからである。「今日は仕事が終わったので帰ります」と午後4時に言えるような文化であれば、裁量労働制には何の問題もない。それを言った瞬間に「他のみんなも頑張ってるんだから、お前もみんなの仕事を手伝え」と命じられ、それに抵抗できない力関係があるから、裁量労働制はヤバイのだ。

©iStock.com

 セクハラも、性的な言動そのものが問題なのではない。その言動を伝えた相手との間に強い権力関係があり、女性の側に「撥ねつける権利」がないからこそ問題なのである。

 力関係があるという一点において、セクハラは決して恋愛たりえないのである。

 だから重要なのは、女性を男性との一対一の対面業務から外してしまうことでは決してない。そういう場面で女性が(あるいは時に男性が)「撥ねつける権利」を持てるように、力関係のあり方を変えて行くしかない。それをどのように遂行していけばいいのかはこれからの議論だが、まずその前提として、セクハラには力関係の問題が潜んでいるということを明確にするのが、本稿の目指してきたところである。

「どこからどこまでがセクハラ?」と悩むあなたへ――2018年のセクハラ問題の本質

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー