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高畑勲を失った宮崎駿は、どこへ向かうのか

サブカルスナイパー・小石輝の「サバイバルのための教養」

2018/05/20
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2人がタッグを組んで全力を傾けた「ハイジ」と「三千里」

 一例を挙げれば、「三千里」の第7話、アルゼンチンで働く母親からの連絡と仕送りが途絶えたことでマルコの家は困窮し、海辺の古いアパートに引っ越さざるを得なくなる。

 マルコは父親から「今度の家は海がよく見える」と聞いていたが、実際に越してみると、アパートの最上階なのに、林立する他のアパートにさえぎられて、海はほんの少ししか見えない。失望をかみ殺したマルコは、少しでも海がよく見える場所を探そうと屋根伝いに歩き始める。海の向こうには母がいる。「海の見える場所を探す」のは、やがてマルコが母を探す旅に出ることの暗示であり、かつ「希望を求めて歩み出す」ことの暗喩に他ならない。

 この場面、宮崎による高低差を活かした絶妙のレイアウト(各シーンの構図や人物配置、キャラクターのポーズ・表情などを定めた「アニメ映像の設計図」)のおかげで、マルコはただ歩いているだけにもかかわらず、観る者は終始ハラハラした思いを味わわされる。それは、母を求める旅の危険をも予感させる。そして、この「危険な散歩」のさなか、マルコは後にアルゼンチンを共に旅することになるヒロイン、フィオリーナと再会するのだ。

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 フィオリーナは、「母親が旅芸人の夫に愛想を尽かし、出て行ってしまった家の娘」だ。マルコは母と離ればなれだが、母の自分への愛情自体はゆらぎないものとして信じられる。だが、フィオリーナは、母の愛を心から信じることさえできない。マルコを決して「悲劇の主人公」として絶対視しない、高畑独特の醒めた視点が、すでにフィオリーナの人物設定の中に用意されている。

 決して過剰な演技やセリフに頼らず、巧みな人物設定や状況設定、場面に込められた様々な象徴性によって、観る者を作品世界に深く引き込んでゆく、高畑の恐ろしく高度な演出と、それを卓越したレイアウトで支える宮崎。

 日本の、いや世界のアニメーションの最高峰は、2人がタッグを組んで全力を傾けた「ハイジ」と「三千里」ではないか、という思いを、私は禁じることができない。

 宮崎は2013年、後に撤回することになる「引退宣言」の会見でこう述べている。「監督になってよかったと思ったことは一度もありませんが……、アニメーターという職業は自分に合っているいい職業だと思っています」「自分がそれなりの力をもって彼(高畑)と一緒にできたのは『アルプスの少女ハイジ』が最初だったと思うんですけど、そのときに打ち合わせが全く必要のない人間になっていたんです、相互に。こういうものをやるって出てきたときに、何を考えているか分かるって人間にまでなっちゃったんです」

宮崎駿氏 ©文藝春秋

 宮崎駿の本当の願いは「いつまでも、高畑勲の下で1人のアニメーターとして働き続ける」ことだったのではないか。

 だが、現実には「三千里」の頃から、高畑と宮崎との関係にはすでに微妙な距離感が生じ始めていた。宮崎は1979年のインタビューの中で、こう話している。「僕は『三千里』でせっかくマルコとフィオリーナが走り寄ったのに抱き合わない、ああいうのは嫌なんです」「『三千里』ではもう、パクさん(高畑)に全部お預けになっちゃってね。そうすると今度は、こっちの欲求不満が高じてくるんですね」

 高畑も、当時についてこう振り返る。「一緒に作った宮さんは、主人公が旅の先々でトラブルを解決し、一宿一飯の恩義を果たす股旅ものをやりたかったのだろうが、僕は惨めな話がよかった。靴が壊れ、生爪がはがれるといった、目を背けたくなるエピソードもあえて入れた」。

 高畑は決して、同じ場所にとどまり続けないクリエーターだ。「美しい自然の中での、天真爛漫な少女の物語」である「ハイジ」の次に挑んだのは、「自意識過剰で生意気で、感情移入しづらい少年」を主人公とする「イタリアのネオリアリズム映画調」のリアルでハードな物語だった。そうした作品全体のトーンは、宮崎にとって耐えがたいものだったのではないか。

現実とイマジネーション

 高畑は一貫して、「作品を観ることを通じて、観客が現実への教訓をつかみ取ってくれる物語」を描き続けた。「つらい作品は映画館で何人かで一緒に見て、『たまらない映画だったねえ』『ああいうこともあるんだよ』と話し合って欲しい。そうすると人生も分かるし、自分自身もそれなりに強くなる」。遺作となった「かぐや姫の物語」も、周囲の人々の気持ちをおもんばかるあまり、自分自身の欲求に素直に従えず、充実した人生を送れなかった女性の悔恨を、冷徹に描いた作品だった。

 一方、宮崎が常に志向し続けたのは、現実のやりきれなさ、不快さを一時でも忘れさせてくれる作品、自らの内面から絶えずわき上がってくる「現実を凌駕するイマジネーション」を具現化するような作品だった。

「僕は、自分が見たいものを作りたい。僕は、漫画映画は、何よりも心を解きほぐしてくれて、愉快になったり、すがすがしい気持ちにしてくれるものだって思っている」

「漫画映画は、喪われた可能性を描いてくれるものなんです」

 彼らのタッグは、高畑が監督を務めた「赤毛のアン」(1979年)の制作途中、宮崎がメーンスタッフから降りて、映画「ルパン三世 カリオストロの城」の監督となったことで終わりを告げる。その後の2人は、「監督とプロデューサー」という関係で支え合うことはあっても、具体的な作品づくりで深く関わり合うことはなかった。

「現実に立ち戻る作品」を目指す高畑と、「現実からの離脱」を志向する宮崎。2人がいずれ袂を分かつのは、必然だったのかもしれない。

 創作者としての両者の立場は一見、対等なように見える。しかし、そこに「社会に対する向き合い方」という判断の軸を入れると、話は変わってくる。