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103歳で大往生奥野誠亮氏が衆院議長になれなかった理由

source : 週刊文春 2016年12月1日号

genre : ニュース, 政治

議長に推されたが土井たか子氏に敗れた

 奥野誠亮元法相が11月16日に亡くなった。享年103。

 現役時代は、議員会館のエレベーターは使わずに階段を上ることで知られた。衆院議員を引退したのが90歳。100歳を超えてもゴルフや麻雀を楽しみ、昨年11月には日本記者クラブの最高齢ゲストとして講演していた。

 奥野氏は1913年(大正2年)生まれ。旧制一高、東京帝国大法学部を経て、内務省に入省する。終戦時に仕えた事務次官は、後に「政界の三賢人」として知られる灘尾弘吉元衆院議長だった。内務省が解体されると自治省に籍を置き、事務次官まで務めて、1963年に政界へ転出。地元の奈良全県区で出馬し、13回連続当選を果たした。

 政界で奥野氏が異彩を放ったのは無派閥を貫いたこと。ポストもカネも派閥中心の当時にあっては稀有の存在だった。初入閣は田中角栄内閣での文相。いま再びブームとなっている角栄氏は「中間派、無派閥議員の動向に常に気を配り、味方にしておこうと努力した」(ベテラン秘書)。

 1980年、ロッキード裁判を抱える鈴木善幸内閣で法相として入閣したことを、政治評論家の伊藤昌哉氏は「奥野法相は『隠れ田中派』の1人である」と評していた。旧内務省でいえば、田中派に属した後藤田正晴元官房長官も奥野氏の1年後輩。実は官僚好きだった角栄氏と、妙にウマがあったようだ。自民党関係者はこう述懐する。

「権勢を誇った自民党税調の中心メンバーの1人でもあった。特に地方税の権威で、何しろ官僚時代に奥野先生自身が骨格を作っている。『私があの法律を作った時は~』と話が始まると、官僚や他の議員も黙るしかなかった」

 奥野氏が最後に閣僚になったのは竹下登内閣での国土庁長官。国会答弁で日中戦争について「あの当時、日本に侵略の意図はなかった」と発言し、引責辞任した。この発言が尾を引き、本来なら適職だったはずの衆院議長にも就任できなかった。

 晩年は、長年理事長を務めたアジア福祉教育財団の名誉会長室に出勤していた。同財団は、ベトナム戦争によって生じた大勢の孤児、母子などの惨状を救うために設立され、その後はアジアからの難民受け入れのために活動している。

 靖国神社参拝にも積極的で、筋金入りの「保守派」だったが、弱者に優しい昔ながらの保守政治家だった。

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