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ともに大洋と日本ハムに所属した高木豊と木田勇、1打席の交錯

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/06/10

 6/8~6/10の対北海道日本ハム交流戦(横浜スタジアム)では各試合でレジェンドOB1打席対決が行われている。初日は高木豊と木田勇の対決で、高木豊がベイのユニフォームを着て打席に立ち、木田がハムのユニフォーム姿で投げたわけだが、この2人、実はともに両チームに所属していたという少し風変わりなレジェンド対決だった。

OB対決した高木豊(左)と木田勇

日本ハムの16番を背負った「ユタカ」

 高木豊はベイスターズ初年度の1993年シーズン後に自由契約となり、現役最後の1年だけ東京時代の日本ハムに在籍した。筆者はその94年4月26日、フラッと観戦した東京ドームの日本ハム対近鉄戦で高木豊が7番レフトで先発出場したのを目撃している。大洋時代は2年目の82年に43試合を守るなど外野も器用にこなす選手だったが、セカンドとショートで圧倒的な守備力を発揮していた全盛期の「ユタカ」を知る身としては、前年にR・ローズの加入で一塁に転向し、次の年に日本ハムの16番を背負ってレフトに走る35歳のユタカを眺めていると、時代の移り変わりを強く感じざるを得なかった。ちなみにその試合、近鉄の先発はこの年限りで日本を離れる野茂英雄。そしてユタカの後に守備固めでレフトに入ったのが翌年カープに移籍する故・木村拓也だった。

 高木豊が日本ハムで1年だけつけた16番は、大洋入団1年目の81年に背負った番号であり、偶然にも木田勇が日本ハム入団時に与えられた番号でもある。ルーキーイヤーの80年にいきなり22勝8敗を挙げ最多勝、防御率1位、勝率1位。新人王はもちろん、チームが優勝を逃したにもかかわらずリーグMVPにも輝くなど圧巻のデビューを飾った木田。その鮮烈ぶりを肌感覚で知らない筆者は、90年に野茂英雄が新人離れした成績を残したときに「木田のデビューはこれくらいのインパクトがあったのかな」と想像を膨らませた。それくらい「1980年の木田勇」は別格なのだ。

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 大洋ファンにとっても木田勇は特別な存在である。横浜市旭区出身で横浜第一商業高(現・横浜商大高)から川崎市の日本鋼管に進み、都市対抗でも活躍するなどアマ球界ナンバーワン左腕の名をほしいままにし、自身も地元大洋入りを希望していたと言われる木田。それを大洋はこともあろうに2度獲得のチャンスがありながら獲り逃しているのだ。78年ドラフトでは広島と阪急との競合、79年は巨人および日本ハムとの競合の末、クジ引きで敗れている。当時の大洋はドラ1入団選手がことごとく期待を裏切っていた時代だが、「あの時もし木田を獲れていたら……」という思いはその後何年にもわたってファンの間にトラウマのように深く刻まれることとなる。そのタラレバ理論は98年ドラフト以降再び再燃し、「あの時もし松坂大輔を獲れていたら……」に変わるわけだが。

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