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松坂大輔の西武時代 「怪物」と呼ばれていたあのころの記憶

文春野球コラム ペナントレース2018 テーマ「松坂大輔」

2018/06/17

「これ、アメリカ(旅行)のおみやげ」と松坂大輔に手渡した。その手のひらにはボストン・レッドソックスのキーホルダー。じっと見つめたあと、「憎らしい顔していますね」とニッコリしながら“憎らしい”返事が。2006年9月のある日のことだった。文化放送から休暇をもらい、メジャーリーグ観戦のためボストンに行きフェンウェイパークの売店で購入したもの。この時点で、オフにポスティングシステムを利用しての松坂のメジャー移籍を球団は認めていて、私の胸中に「もしかするとボストンも」があった。

かなり“憎らしい顔”をしているレッドソックスのキーホルダー ©中川充四郎

 本人は意中の球団を明確には表明していなかったが、周りではピンストライプのヤンキースが本命と見られていた。そのためか、「宿敵球団」のグッズに対しての憎まれ口も予想の範囲内だったのだ。当時のポスティングシステムのルールは最高金額を提示した球団が交渉権を得られるもの。そして11月15日。レッドソックスが5111万ドル(当時のレートで約60億円)で入札し、決まった。この時に9月のキーホルダーの件が頭をよぎったかどうかは、本人には確認していない。ただ、私個人は勝手に「縁結び役」と思い込んでニンマリしたものだった。

「東尾監督がピッチャー出身だったので」

 1998年11月20日に行われたドラフト会議で、3球団が競合しクジ引きで西武が松坂の交渉権を獲得した。当初、球団のドラフト戦略では松坂は1位指名ではなかった。それが、夏の甲子園での活躍をテレビで見ていた当時の堤義明オーナーの「鶴の一声」で方針転換。もちろん、フロント陣の評価は高く、調査はしていたので戸惑いは生じなかった。ただ、本人は横浜入団の希望が強く、入団交渉に時間がかかったのも事実だ。

 結局、「東尾(修)監督がピッチャー出身だったので、入団を決めました。野手出身の監督だったら、社会人(野球)に進んでいたでしょう」と松坂は語った。このドラフト会議のひと月ほど前に行われた日本シリーズは西武対横浜。結果は2勝4敗で敗れたが、ここで「ツキ」を残しておいたので松坂の当たりクジが引けたと考えられなくもない。入団の意思を公表した時、東尾監督から現役時代の「200勝記念球」が贈られ、「(松坂が)200勝したら、(その記念球を)もらうからな」と言っていた東尾監督。まだ日米通算でも実現していないのが残念だ。

入団会見後の個別インタビュー。かなりスリムな松坂とかなり若い筆者 ©中川充四郎

 翌年の高知・春野キャンプではファンが殺到して大賑わいとなった。球場からブルペンへの移動は徒歩なので、体型が似ていることから谷中真二(現2軍スコアラー)が「影武者」になったほど。頭からタオルをかけ、「18」のウインドブレーカーを着て、球場の外に現れると磁石に引き付けられる砂鉄のようにファンが群がる。そして、タオルを取ると別人でガッカリ。そんな光景が思い出されるのも懐かしい。

 このキャンプ時から文化放送は、松坂付き専属アナを配置した。いわゆる「松坂番」だ。そのため、私の取材は松坂以外が中心となったのだ。もちろん、松坂と話をすることはできたが、どうしても取材量が減るのも事実。見続けてはいるので情報は確保できたが、細かな面は「また聞き」が多くなっていった。