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ヤクルトを交流戦勝率1位に導いた小川淳司監督の“優しさ”の秘密

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/06/22

 つい3週間前には、こんな日が訪れるなんてまったく想像もしていなかった――。

 交流戦が始まるまでは、「とにかくケガさえしなければいいから……」とか、「去年のように10連敗さえしなければ御の字だ……」とか、後ろ向きなことばかりを考えていた自分を徹底的に罵倒したい気分だ。まさか、それから3週間後に「交流王」の称号を得る日がやってくるなんて……。これまで、交流戦というのは、ヤクルトファンにとっては、じっと嵐の過ぎ去るのを待つだけの日々だったのに……。

 昨年、「シーズン96敗」という屈辱の日々を過ごした身にとって、「勝率1位」という名誉ある称号はソフトバンクの専売特許だとばかり思っていた……。それが、今年は我が東京ヤクルトスワローズナインに栄光の称号が与えられるなんて……。今回「……」が多い文章になっているのは、それだけ感慨深い思いにとらわれているからなのだろう。

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 どん底のチームを立て直すべく、そして火中の栗を拾うべく、4年ぶりにユニフォームに袖を通した、我らが小川淳司監督。振り返ってみれば、高田繁監督休養を受け、シーズン途中から監督代行に就任した2010年は就任時の借金19を見事に完済し、シーズン終了時には貯金4を記録した。さらに、正式に監督就任した翌11年には9月まで首位を快走する圧倒的な強さを見せつけてくれた(……結局、シーズン最終盤に失速して2位に終わってしまったけれど)。

 思えば、昨年から書かせてもらっているこの文春野球・ヤクルトのコラムも、重苦しく沈鬱な文章が多かった。言い訳がましくなるけれども、「96敗」という現実を前にして、明るく能天気にふるまうことなど、できるはずがないではないか! それに比べると、今回の文章は自分でもわかるぐらいにテンションが高い! それもこれも、「交流戦勝率1位」という厳然たる事実が、我々の目の前にあるからである。まだシーズンの半分も終わっていない時期ではあるけれども、これから夏場に向けて、俄然ペナントレースへの興味と関心が倍増してきた。改めて小川監督には感謝、感謝、感謝なのだ。

チームを「交流王」に導いた小川淳司監督 ©長谷川晶一

現役時代の小川さんについて記憶していること

 子どもの頃からヤクルトファンだった。1981年に河合楽器からドラフト4位で入団し、背番号《35》を背負った大型外野手のことはよく覚えている。ところが、「期待の大型大砲」という見た目とは裏腹に、なかなか芽が出ないシーズンが続いていたこともハッキリと記憶している。あの頃のヤクルト外野レギュラー陣は、ミスタースワローズ・若松勉、そしてミスター弾丸ライナー・杉浦享が不動の地位を占めていた。残る一つのポジションを外国人選手と背番号《35》が争い、彼はことごとくレギュラー争いに敗れ続けた。

 当時の小川さんについて、僕が記憶しているのは、ある年のファンブックに掲載された「ファン感謝デーレポート」で、当時人気絶頂だった荒木大輔の後ろで親衛隊のコスプレをしている姿と、オフに挙行された「結婚式レポート」である。そこには奥様とのツーショット写真が掲載されていたのだが、驚いたのは新妻のプロフィールだった。彼女の前職は後楽園球場の「リリーフカー・ギャル」だったのだ。

1984年のファンブックに掲載された親衛隊のコスプレをする小川監督

 当時、中学生だった僕は「投手でもない彼が、どうしてビジター球場のリリーフカーの運転手と知り合ったのだろう? しかも投手でもないのに……」と不思議に思ったことを今でもハッキリ覚えている。それなのに、グラウンドで躍動する彼の姿は、残念ながらあまり記憶にない。代打で出てきて、茫然と見逃し三振する姿はよく覚えているけれども……。

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