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うつ、パニック障害を抱え、老親の年金で暮らす独身姉妹の絶望

ルポ・毒親介護 #3 高齢化した「毒親」が奪う子どもの人生

2018/06/11

 真紀さんが11歳のときに両親は離婚。母は3人の子どもを育てるため、平日は社員食堂の調理員、休日はゴルフ場のキャディーをして働いた。早朝から家を空ける母に代わり、真紀さんは家事や弟妹の世話をする。長女として母を助けることは仕方ないと思えたが、そこには不快でおぞましい経験があった。

給食費も払えなかった辛い過去

「母はお金もないくせに、ヒモみたいな男と次々につきあう。朝、私が起きると知らない男が裸で寝てるとか、しょっちゅうありました。たいていろくでもないヤツで、酒癖が悪かったり、賭け事が好きだったり。私は今で言う性的虐待のようなこともされたんです」

「性的虐待」の中身を尋ねると、「ポルノ雑誌を見せられるとか、まぁいろいろ……」、そう言葉を濁す。表現できない苦しみを負う彼女には、さらに別のつらさもあった。母が男にお金を貢ぐため、子どもたちの生活が困窮するのだ。

 当時、給食費や修学旅行費などは集金袋に入れて学校へ持参していた。期日になっても払えない真紀さんは、教室の隅で身を縮め、教師の冷たい視線を浴びるしかない。

 自宅の木造アパートには風呂がなかったが、銭湯代にも事欠いた。新しい服や流行りの文房具、友達が持つレコード、年頃の女の子がほしいものはどう願っても手が届かない。

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 学校では「臭い」「貧乏人」と残酷な言葉でいじめられ、家に帰ればろくでもない男が待ち構えた。思い余って母に助けを求めても、「ふーん」と生返事でまともに取り合ってはくれない。真紀さんはそのころの心情を、「死にたいと思ったことは数えきれない」と打ち明ける。

 なんとか高校に進学した真紀さんはアルバイトで学費を払い、弟妹の生活も支えた。卒業後に正社員として就職したが20代からは転職を繰り返し、30代以降は派遣社員として働く。年に数回は母や弟妹と交流していたが、気持ちの上では「もう他人って感じだった」という。

45歳で派遣会社との契約が打ち切られて

「23歳のとき、都会で一人暮らしをはじめました。ちょうどバブルだったので、ディスコで踊ったり、旅行に出かけたり、ようやく『The青春』でしたね。恋愛や同棲もしたんですけど、過去のトラウマからか結局うまくいかなかった。仕事ではパワハラにセクハラ、それに派遣という不安定な状態で結構メンタルにくるんです」

 40歳を過ぎたころ、突然の呼吸困難や強烈な不安感に襲われるようになった。収入を途絶えさせまいと無理を重ねて働いたが、45歳で派遣会社との契約が打ち切られる。

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 わずかな貯金を切り崩しながら求職する中、体調が急変して入院を余儀なくされた。そこで突き付けられたのが家族の存在だ。

「家族に入院保証人になってもらう必要があったんです。やむなく母に頼み、当面のお金も貸してもらった。そのとき、みんなで一緒に住もうと言われました。母も70代になっていたし、私はひとりで生きることに限界を感じてた。実家近くで一人暮らしをしていた弟もまだ独身だったので、トントン拍子に話がまとまったんです」