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連載高野秀行のヘンな食べもの

タイで見つけた「世界最高のビールのつまみ」の意外すぎる正体――高野秀行のヘンな食べもの

2018/07/03
イラスト 小幡彩貴

「世界で最も美味いビールのつまみ」と私が勝手に認定しているタイの食べ物がある。

 その名は「ネーム」。なかなかに風変わりな食品だ。豚の生肉を発酵させたものだからだ。一つ間違えば、腐った豚の生肉である。その紙一重にものすごい旨みを感じる。

 日本のタイ料理店でもメニューにあるが、あれはタイのスーパーやコンビニでも売られている大量生産の商品。「本物」とは、豆から挽いてドリップで入れたコーヒーとインスタントコーヒー以上にちがう。私は本場とされる北タイのチェンマイでプロのネーム職人(料理人)一家を取材したことがあるが、「本物」は桁違いに手間がかかる料理だった。

 なにしろ市場に卸している家なので一度に作る量は莫大。まず、豚の皮七キロを一時間かけて煮る。裏に脂身がついた皮は見るからに旨そうだが、これを包丁で千切りにするのは大変難しい。左手でしっかり皮を押さえ、刺身を切るようにスーッと真っ直ぐ切る。三人がかりで一時間かかった。

 次に調味料の作製。ニンニク、岩塩、うま味調味料、保存料として硝石を石臼で潰しながらよく混ぜる。

 赤ん坊が洗えるくらいの巨大なボウルに、切った豚皮、調味料ミックス、それに生の豚挽肉六キロ、炊いた餅米一・三キロをぶち込み、両手で力を入れて捏(こ)ねる。材料をまんべんなく行き渡らせると同時に、ネームが出来上がったとき、しっかり固まり、かつふわっとした柔らかい歯ごたえを出すのがコツだという。

 二十分ほど捏ねると、今度は約五十グラムずつ、細長い固まりを作り、唐辛子と一緒に、バナナの葉っぱで包んでいく。生ものなのでビニールで包むと常温では一日で傷んでしまうが、バナナの葉なら一週間もつし、もっと美味しいという。

 出来たてのネームをそのまま食べてもいいが、ふつうは常温で数時間置く。実際、市場へ持っていって売り場に並べていれば、そのぐらいの時間はすぐに経つ。すると、生肉が発酵して独特のうま味と酸味がミックスした味が出てくる。ただし、この酸味にごまかされ、いつの間にかネームが傷んでいるケースもある。豚の生肉が傷んでいたら当然危険。それを恐れるがゆえに、商品化されたネームは発酵をごく低めに押さえ、結果として、ただの豚肉ソーセージのようなつまらない味に落ち着いてしまう。まさに「紙一重」の勝負なのだ。

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